AIというロマン
昨年のことだったか、
AI麻雀「爆打」が七段になったときに出た
どこかの記事を読んで
僕はちょっとした違和感を覚えた。
たしかこんな表現だったと思う。
「麻雀においてプロレベルとされる天鳳の七段になったAI」
今読んでもやはり違和感がある。
もう少し踏み込んで言うなら、
麻雀についてよく知らない人向けの記事とすると
これは明らかにミスリードを招く表現だ。
・天鳳の七段になることは七段の実力を保証するのか
→七段になるだけでは成績のぶれの域を出ない。
安定段位という指標にしたところで絶対のものではないし
麻雀というゲームの性質上、段位が実力を正確に示すものではないことは
麻雀の実力を語る上で絶対に踏まえるべき事実だ。
・爆打は七段の実力があると言えるのか
→爆打は当時、安定段位にして六段前後だったと思うが、
実際かなり長い間七段から五段の間を往復していたわけで
七段の実力が当時あったとは言えないと思う。
・麻雀のプロレベルの実力とはどの程度の実力を示すのか
→将棋で言えば、プロレベルといえば
アマチュアには全く歯が立たないレベルだ。
トップレベルのアマチュアであっても
プロの一番下の層が相手でさえ、ハンデなしで戦えば5割勝てない。
(それも元奨励会のようなプロ養成機関に所属していた人ばかりだ)
麻雀のプロレベルと言った場合に、それが
プロのトップと同じレベルなのか、平均なのか
あるいは一番下の層なのかが曖昧である上に
そもそも実力評価自体が難しいものだ。
AIの実力を論じるときに用いる物差しとして
プロレベルという表現は妥当ではないだけでなく、
将棋プロとアマの間にあるような絶対的実力差があるかのような
誤解を生みかねないと思う。
・天鳳の七段はプロレベルの実力と言えるのか
→麻雀プロの実力を正確に判断するのは不可能だけれど
トッププロが七段程度には留まらないことは
おそらく衆目の一致するところだろう。
平均的なプロ(これも微妙な表現だが)であっても
七段に到達するのはそれほど難しくないと思う。
平均以下のプロでようやくちょっと大変なんじゃないかという印象だ。
従って、まるで目盛りの正確でない物差しで曲面を計測するかのような
そんなもどかしさを感じざるを得ない。
何よりも、これらについて一切考察することなく
単に七段になった事実だけをもって
あたかも将棋のAIと同列のような形で論じたその記事には
率直に言って不満があった。
(実を言うと記事が出た当時に
その違和感について書こうと思ったのだけれど
Twitterで展開されていた当該記事に対しての論評は
論点が定まらないままに情緒的な誹謗に流れてしまい
それに加わるような形の記事を上げるのがためらわれて
Twitterでちょろっと触れる程度だけで終わってしまった)
あれから1年ちょっとが経過した。
AIの世界において1年というスパンは
実力の向上に十分すぎる時間のようで
将棋のAIでは1年前のソフトは
最新ソフトにまったく歯が立たない。
爆打はどうかといえば
六段そこそこだった安定段位は
直近1000戦で八段を超えている。
1000戦というのは実力を判断する指標としては
いささか短期に属する範囲だが
直近2000戦に広げても七段を超えているから
やはりこれは実力を向上させていると考えてもいいと思う。
となると今度は
「麻雀のAIはいつ人間を明確に凌駕するのか」
というところに関心が移る。
将棋はその閉鎖性故か、AIが人間を凌駕するかしないかの
いわば興行として一番美味しい部分を逃してしまった感がある。
渡辺明竜王がAI”ボナンザ”と対戦して勝ったところから
今年佐藤天彦名人がAI”Ponanza”に完敗したところまで
途中の過程に見ごたえのあるドラマがもっとあったはずなのだけれど
それを逃してしまったがために(少し遅れてしまったがために)
明らかに凌駕されてから対戦し、
結果的にプロ棋士が恥をかくようなドラマしか生めなかった。
麻雀はそうならないでほしいという意見は多い。
僕自身もそれはとても思う。
がしかし、それは天鳳という一企業のインフラを使わないといけないのか、
という問題も同じくらい重要な問題だろうと思う。
ネット麻雀だろうとリアル麻雀だろうと
自分は人間相手の心理ゲームとしての側面を麻雀に求める、
というプレイヤーにとって、AIはエイリアンそのものだ。
感情も疲労も動揺もなく、
ひたすら同じ精度で打ち続けるAIに
異物としての抵抗感を覚える人がいても
それは全く不思議ではないし、否定されるべきものでもない。
そして、天鳳は営利企業として
そういった人からも課金をしてもらって運営されている。
AIに門戸を開放するということは
そういった層を切り捨てることに等しいわけで
それに見合うだけのメリットが天鳳にあるかどうかは
極めて大きな問題であるはずだ。
それは天鳳の経営の話であって
末端ユーザーには関係ないというものでもない。
人が離れていって卓稼動が落ちた場合
ネット麻雀は「手軽に打てる」という大きな売りを失う。
Twitterで行われていたアンケートでは
25%くらいが反対だという結果だったけれど
実際に門戸が開放された場合
その25%のさらに何割かが離れるリスクは確実に存在する。
そのリスクと、例えばAIによる麻雀の真理の究明のようなメリットは
果たして天鳳にとって釣り合うものなのだろうかとやはり思う。
麻雀というゲームの性質上、対人要素が常にあるわけだから
AIの進化にとって対戦相手のレベルが上がることが必要だ、
というのは僕にも理解できる。
けれど単にAIが進化していくところだけにロマンを感じても
企業としての旨味がなければ実現はさせられまい。
将棋の場合はスポンサーをつけて、
プロ棋士の集合体である公益法人が協力したことで
いささか遅れたにせよ実現したわけだが
麻雀にそれを敷衍するなら
それは競技プロ団体が本来協力して行うべきことではないか。
少なくとも文化的な側面で考えるならそうなると思う。
競技プロ団体の現状を見て、それが無理だと判断し
天鳳にそれを期待するのは分からないではないけれど、
対戦相手のレベルを上げたいだけなら
鳳凰卓と同一条件の個室を作成し、AIはそこに常駐する、
対戦してくれたプレイヤーには成績や打数に応じて謝礼を支払う、
という形でもいいはずだ。
そういった話が全く出てこないまま
ただ強くなったから鳳凰卓で打たせろ、というのは
少し乱暴すぎる意見だろうと思う。
AIの研究開発が意義のあるものなら
そのコストをまかなってくれるスポンサーや公的支援を探す、
というのはアカデミックな世界でも当然のように求められているものだ。
天鳳というインフラを無償でいつでも使えると
AI開発者が思っているとしたらそれは了見違いだろう。
まして全員が課金している鳳凰卓なら尚更だ。
麻雀というゲームを文化として見て
その真理の究明や発展に寄与したいという部分と
天鳳を麻雀というゲームを遊べるインフラとして見て
決して少なくない課金ユーザーの意向を無視できない企業論理の部分。
この二つを比較衡量して
どこかにうまい落としどころを見つけらればいいなと
今のところ、それだけは思っている。
AI麻雀「爆打」が七段になったときに出た
どこかの記事を読んで
僕はちょっとした違和感を覚えた。
たしかこんな表現だったと思う。
「麻雀においてプロレベルとされる天鳳の七段になったAI」
今読んでもやはり違和感がある。
もう少し踏み込んで言うなら、
麻雀についてよく知らない人向けの記事とすると
これは明らかにミスリードを招く表現だ。
・天鳳の七段になることは七段の実力を保証するのか
→七段になるだけでは成績のぶれの域を出ない。
安定段位という指標にしたところで絶対のものではないし
麻雀というゲームの性質上、段位が実力を正確に示すものではないことは
麻雀の実力を語る上で絶対に踏まえるべき事実だ。
・爆打は七段の実力があると言えるのか
→爆打は当時、安定段位にして六段前後だったと思うが、
実際かなり長い間七段から五段の間を往復していたわけで
七段の実力が当時あったとは言えないと思う。
・麻雀のプロレベルの実力とはどの程度の実力を示すのか
→将棋で言えば、プロレベルといえば
アマチュアには全く歯が立たないレベルだ。
トップレベルのアマチュアであっても
プロの一番下の層が相手でさえ、ハンデなしで戦えば5割勝てない。
(それも元奨励会のようなプロ養成機関に所属していた人ばかりだ)
麻雀のプロレベルと言った場合に、それが
プロのトップと同じレベルなのか、平均なのか
あるいは一番下の層なのかが曖昧である上に
そもそも実力評価自体が難しいものだ。
AIの実力を論じるときに用いる物差しとして
プロレベルという表現は妥当ではないだけでなく、
将棋プロとアマの間にあるような絶対的実力差があるかのような
誤解を生みかねないと思う。
・天鳳の七段はプロレベルの実力と言えるのか
→麻雀プロの実力を正確に判断するのは不可能だけれど
トッププロが七段程度には留まらないことは
おそらく衆目の一致するところだろう。
平均的なプロ(これも微妙な表現だが)であっても
七段に到達するのはそれほど難しくないと思う。
平均以下のプロでようやくちょっと大変なんじゃないかという印象だ。
従って、まるで目盛りの正確でない物差しで曲面を計測するかのような
そんなもどかしさを感じざるを得ない。
何よりも、これらについて一切考察することなく
単に七段になった事実だけをもって
あたかも将棋のAIと同列のような形で論じたその記事には
率直に言って不満があった。
(実を言うと記事が出た当時に
その違和感について書こうと思ったのだけれど
Twitterで展開されていた当該記事に対しての論評は
論点が定まらないままに情緒的な誹謗に流れてしまい
それに加わるような形の記事を上げるのがためらわれて
Twitterでちょろっと触れる程度だけで終わってしまった)
あれから1年ちょっとが経過した。
AIの世界において1年というスパンは
実力の向上に十分すぎる時間のようで
将棋のAIでは1年前のソフトは
最新ソフトにまったく歯が立たない。
爆打はどうかといえば
六段そこそこだった安定段位は
直近1000戦で八段を超えている。
1000戦というのは実力を判断する指標としては
いささか短期に属する範囲だが
直近2000戦に広げても七段を超えているから
やはりこれは実力を向上させていると考えてもいいと思う。
となると今度は
「麻雀のAIはいつ人間を明確に凌駕するのか」
というところに関心が移る。
将棋はその閉鎖性故か、AIが人間を凌駕するかしないかの
いわば興行として一番美味しい部分を逃してしまった感がある。
渡辺明竜王がAI”ボナンザ”と対戦して勝ったところから
今年佐藤天彦名人がAI”Ponanza”に完敗したところまで
途中の過程に見ごたえのあるドラマがもっとあったはずなのだけれど
それを逃してしまったがために(少し遅れてしまったがために)
明らかに凌駕されてから対戦し、
結果的にプロ棋士が恥をかくようなドラマしか生めなかった。
麻雀はそうならないでほしいという意見は多い。
僕自身もそれはとても思う。
がしかし、それは天鳳という一企業のインフラを使わないといけないのか、
という問題も同じくらい重要な問題だろうと思う。
ネット麻雀だろうとリアル麻雀だろうと
自分は人間相手の心理ゲームとしての側面を麻雀に求める、
というプレイヤーにとって、AIはエイリアンそのものだ。
感情も疲労も動揺もなく、
ひたすら同じ精度で打ち続けるAIに
異物としての抵抗感を覚える人がいても
それは全く不思議ではないし、否定されるべきものでもない。
そして、天鳳は営利企業として
そういった人からも課金をしてもらって運営されている。
AIに門戸を開放するということは
そういった層を切り捨てることに等しいわけで
それに見合うだけのメリットが天鳳にあるかどうかは
極めて大きな問題であるはずだ。
それは天鳳の経営の話であって
末端ユーザーには関係ないというものでもない。
人が離れていって卓稼動が落ちた場合
ネット麻雀は「手軽に打てる」という大きな売りを失う。
Twitterで行われていたアンケートでは
25%くらいが反対だという結果だったけれど
実際に門戸が開放された場合
その25%のさらに何割かが離れるリスクは確実に存在する。
そのリスクと、例えばAIによる麻雀の真理の究明のようなメリットは
果たして天鳳にとって釣り合うものなのだろうかとやはり思う。
麻雀というゲームの性質上、対人要素が常にあるわけだから
AIの進化にとって対戦相手のレベルが上がることが必要だ、
というのは僕にも理解できる。
けれど単にAIが進化していくところだけにロマンを感じても
企業としての旨味がなければ実現はさせられまい。
将棋の場合はスポンサーをつけて、
プロ棋士の集合体である公益法人が協力したことで
いささか遅れたにせよ実現したわけだが
麻雀にそれを敷衍するなら
それは競技プロ団体が本来協力して行うべきことではないか。
少なくとも文化的な側面で考えるならそうなると思う。
競技プロ団体の現状を見て、それが無理だと判断し
天鳳にそれを期待するのは分からないではないけれど、
対戦相手のレベルを上げたいだけなら
鳳凰卓と同一条件の個室を作成し、AIはそこに常駐する、
対戦してくれたプレイヤーには成績や打数に応じて謝礼を支払う、
という形でもいいはずだ。
そういった話が全く出てこないまま
ただ強くなったから鳳凰卓で打たせろ、というのは
少し乱暴すぎる意見だろうと思う。
AIの研究開発が意義のあるものなら
そのコストをまかなってくれるスポンサーや公的支援を探す、
というのはアカデミックな世界でも当然のように求められているものだ。
天鳳というインフラを無償でいつでも使えると
AI開発者が思っているとしたらそれは了見違いだろう。
まして全員が課金している鳳凰卓なら尚更だ。
麻雀というゲームを文化として見て
その真理の究明や発展に寄与したいという部分と
天鳳を麻雀というゲームを遊べるインフラとして見て
決して少なくない課金ユーザーの意向を無視できない企業論理の部分。
この二つを比較衡量して
どこかにうまい落としどころを見つけらればいいなと
今のところ、それだけは思っている。
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溜まったツケを払うとき
またしても、と言うべきだろう。
タイトル戦の決勝で優勝の可能性がなくなった、
いわゆる「目無し」の打ち方についての問題が起きた。
SNSでも盛んに議論されているけれど
自分の思考を整理がてら、少し触れてみる。
1:行為そのものの是非について
目が無くなった時点でオールツモ切りをするというのが
今回問題になっている目無しプレイヤーの取った選択だが
この妥当性について考えてみる。
結論から先に言えば
目的や動機において理解はするけれど
手段については妥当性を欠くと考える。
興行を無視してプロは存在し得ないからだ。
SNSなどでのファンの反応を見ても
これを是とするか非とするかは完全に二分している。
非とするファンを納得させられるだけでなく
その方が望ましいのだという説得力のある意見は
今のところないのではないだろうか。
前述のように、その意図、目的は理解できる。
対局における影響を意思ではなくランダムに委ねるというのは
どのみち誰かには有利になり誰かには不利になるという
麻雀のゲーム性に由来しているものだろう。
どうせ影響が出るのなら、意思を介在させまいということだ。
しかしながら、この「ゲームへの影響」を考えるときには
必ずそこにはその影響の大小を比較しなければならないはずだ。
A:どうせ影響が出るとしても極力小さくなるように努めるべきだ
B:どうせ影響が出るなら大きくても小さくても知ったことではない
興行としてどちらを選択すべきなのかという視点抜きで
この問題の結論を下してはならないわけで
プレイヤーの摸打の自由に制限があっても仕方がないと個人的には考える。
また、仮にオールツモ切りを認めるとしても
そこにはクリアしないといけない手順があるはずだ。
そのプレイヤーに優勝の目がなくなったというのが
本当に全員に共通した認識になっているのかどうか、
それは誰がいつどのように確認するのか、
そのときに必要とされる所作、合図は必要なのか否か、
そういったことをきちんと事前に決めておかないと
「実際にはまだ目があるのに、突然延々とツモ切りをしだした」
「実際にはもう目がないのに、本人はまだ目があると思っていた一方で
周りは目がないことを知っていた時に、たまたまツモ切りがずっと続いた」
こういった状況で無用の錯誤が生まれる。
これは事前に解消しておくべきことだろうけれど
そういったことはされていなかったと思う。
2:目無しプレイヤーの取るべき行動について
今回の件で、当該プレイヤーは
自分が選択した行為について謝罪し、
所属団体の長も同様に謝罪したが
処分はそれにとどまらず、
多くの大会への参加を許されないことになった。
行為の妥当性にも関わることだが、
そもそもなぜ単騎駆けのような行為になったのか。
目無し問題ははるか昔から存在する問題だ。
それに対する解決策、コンセンサスを形成することなく
その場の独断で決めたかのような顛末である。
行為の後にすぐに謝罪するくらいなら
なぜあらかじめもっと議論を深めておかないのか。
時間がなかったということはあるまい。
行為自体には賛否両論あるはずだ。
競技としての純粋性だけでなく、興行としての側面からも
反対意見があるのは明らかだろうと思う。
それを比較考量してなおそうすべきだと思ったのであれば
逆に簡単に謝罪するような話ではなくなるはずだ。
少なくとも当該行為の前に、所属団体内部で
全体のコンセンサスを得ていなければおかしいと思う。
明文化しておくことが望ましいのはいうまでもない。
競技プロとしての存在意義を問われかねない
それくらい重大な行為だと思うし、
それならその行為をする前にやっておくべきことがあったはずだ。
この点について、例えばRMUは
新決勝方式という解決策を提示した。
これもまだまだ改善の余地はあるかもしれないが
少なくとも団体としての解決策はまずはひとつ提示した形だ。
プロ連盟にはコンセンサスらしきものがあるように見える。
どういうコンセンサスかというと
「摸打の妥当性につき理事(幹部)による審査、審判がある」
という点についてのコンセンサスだ。
別に皮肉でもなんでもない。
要するに彼らは、目無しの時にどう打つべきかについて
不文律のようなものを持っていて
それに沿っているかどうかを”上の人”が判断する。
所属員はその不文律について理解を深めるべく
”上の人”に日ごろから指導を請うべきものであり
それこそが彼らの考える「プロの自覚」である。
(審査する”上の人”自身が対局者となった時に
自分が用いてきた審査基準に拘束されるべきかどうか、というのが
かつて紛糾した「目無しのピンフのみリーチ」の論点の一つだけれど
ここではそれは論じない)
こう考えてくると当該プレイヤーの下した結論は
拙速というか稚拙なものであるように思うし
それは反省しなければならない点だろうけれど
同時に、所属団体の幹部も
負うべき責任があるのではないかと考える。
監督責任、運営責任というか
決めておくべきことを決めるのを怠っているからだ。
決めておけることを怠ってきたからだ。
3:処分について
もしこれが協会上層部からの停止処分であれば
これははっきり妥当性を欠くと考える。
当該行為が不適切だったとしても
行為と処分のバランスを著しく欠いている。
謝罪して早急な規定作成を図ります、
くらいなら十分妥当性を認められるけれど
行為時点で規定されていなかったものを
遡及処罰するようなことはあってはならない。
しかしながら、本人の意思として
出場を辞退するという形を採っているのであれば
これは本人の意思でしか撤回できないし
おそらくそれはしないだろう。
稚拙さ、拙速さの責任を痛感して
しばらく謹慎しますと本人が言っているのに
周りがそれを撤回しろと強要することはできない。
この点につき、他団体からの圧力があったという情報もあるが
これは不確定な情報なので論点には含めない。
あったのならばそれは不適切なものだとは思うけれど
一方で、興行のパートナーとして評価を下すのは当然でもあり
不正確な論評は控えるべきだろう。
結局のところ、麻雀プロ団体は
自らが放置してきた問題によって
いつまでも揉め事を繰り返しているということになる。
これは目無し問題だけでなく
刑法や風営法との関わりなどの問題も同じだけれど
そういう根本的な問題を放置して
普及などはありえないというのはこの機会に強く指摘しておきたい。
前回の目無し問題が紛糾してからでさえ
既に数年が経過していることを競技プロは恥じるべきだ。
4:最後に
こういった問題を解決するに際して
各団体のトップもしくは幹部による議論というのが必要なのではないか。
麻雀業界には現在、大きなスポンサーがいる。
そのスポンサー自身がどう考えているのかは不明だけれど
業界として発展させられなければ
スポンサードの効果は低いだろう。
その意味でも、有識者も交えた討論会の開催を望む。
可能ならば、各団体の上に位置する
コミッショナー的な存在を作れればなおいい。
結局のところ、麻雀業界以外の世界に対応していくには
(それがロビー活動であれ何であれ)
ちまちました個々の団体単独では難しいだろうからだ。
まぁそれは絵空事というか夢物語で
実現はしないだろうけれど
団体内部の利害から離れた人だけで作る業界統括組織があると
こういった揉め事は減るのではないだろうか。
タイトル戦の決勝で優勝の可能性がなくなった、
いわゆる「目無し」の打ち方についての問題が起きた。
SNSでも盛んに議論されているけれど
自分の思考を整理がてら、少し触れてみる。
1:行為そのものの是非について
目が無くなった時点でオールツモ切りをするというのが
今回問題になっている目無しプレイヤーの取った選択だが
この妥当性について考えてみる。
結論から先に言えば
目的や動機において理解はするけれど
手段については妥当性を欠くと考える。
興行を無視してプロは存在し得ないからだ。
SNSなどでのファンの反応を見ても
これを是とするか非とするかは完全に二分している。
非とするファンを納得させられるだけでなく
その方が望ましいのだという説得力のある意見は
今のところないのではないだろうか。
前述のように、その意図、目的は理解できる。
対局における影響を意思ではなくランダムに委ねるというのは
どのみち誰かには有利になり誰かには不利になるという
麻雀のゲーム性に由来しているものだろう。
どうせ影響が出るのなら、意思を介在させまいということだ。
しかしながら、この「ゲームへの影響」を考えるときには
必ずそこにはその影響の大小を比較しなければならないはずだ。
A:どうせ影響が出るとしても極力小さくなるように努めるべきだ
B:どうせ影響が出るなら大きくても小さくても知ったことではない
興行としてどちらを選択すべきなのかという視点抜きで
この問題の結論を下してはならないわけで
プレイヤーの摸打の自由に制限があっても仕方がないと個人的には考える。
また、仮にオールツモ切りを認めるとしても
そこにはクリアしないといけない手順があるはずだ。
そのプレイヤーに優勝の目がなくなったというのが
本当に全員に共通した認識になっているのかどうか、
それは誰がいつどのように確認するのか、
そのときに必要とされる所作、合図は必要なのか否か、
そういったことをきちんと事前に決めておかないと
「実際にはまだ目があるのに、突然延々とツモ切りをしだした」
「実際にはもう目がないのに、本人はまだ目があると思っていた一方で
周りは目がないことを知っていた時に、たまたまツモ切りがずっと続いた」
こういった状況で無用の錯誤が生まれる。
これは事前に解消しておくべきことだろうけれど
そういったことはされていなかったと思う。
2:目無しプレイヤーの取るべき行動について
今回の件で、当該プレイヤーは
自分が選択した行為について謝罪し、
所属団体の長も同様に謝罪したが
処分はそれにとどまらず、
多くの大会への参加を許されないことになった。
行為の妥当性にも関わることだが、
そもそもなぜ単騎駆けのような行為になったのか。
目無し問題ははるか昔から存在する問題だ。
それに対する解決策、コンセンサスを形成することなく
その場の独断で決めたかのような顛末である。
行為の後にすぐに謝罪するくらいなら
なぜあらかじめもっと議論を深めておかないのか。
時間がなかったということはあるまい。
行為自体には賛否両論あるはずだ。
競技としての純粋性だけでなく、興行としての側面からも
反対意見があるのは明らかだろうと思う。
それを比較考量してなおそうすべきだと思ったのであれば
逆に簡単に謝罪するような話ではなくなるはずだ。
少なくとも当該行為の前に、所属団体内部で
全体のコンセンサスを得ていなければおかしいと思う。
明文化しておくことが望ましいのはいうまでもない。
競技プロとしての存在意義を問われかねない
それくらい重大な行為だと思うし、
それならその行為をする前にやっておくべきことがあったはずだ。
この点について、例えばRMUは
新決勝方式という解決策を提示した。
これもまだまだ改善の余地はあるかもしれないが
少なくとも団体としての解決策はまずはひとつ提示した形だ。
プロ連盟にはコンセンサスらしきものがあるように見える。
どういうコンセンサスかというと
「摸打の妥当性につき理事(幹部)による審査、審判がある」
という点についてのコンセンサスだ。
別に皮肉でもなんでもない。
要するに彼らは、目無しの時にどう打つべきかについて
不文律のようなものを持っていて
それに沿っているかどうかを”上の人”が判断する。
所属員はその不文律について理解を深めるべく
”上の人”に日ごろから指導を請うべきものであり
それこそが彼らの考える「プロの自覚」である。
(審査する”上の人”自身が対局者となった時に
自分が用いてきた審査基準に拘束されるべきかどうか、というのが
かつて紛糾した「目無しのピンフのみリーチ」の論点の一つだけれど
ここではそれは論じない)
こう考えてくると当該プレイヤーの下した結論は
拙速というか稚拙なものであるように思うし
それは反省しなければならない点だろうけれど
同時に、所属団体の幹部も
負うべき責任があるのではないかと考える。
監督責任、運営責任というか
決めておくべきことを決めるのを怠っているからだ。
決めておけることを怠ってきたからだ。
3:処分について
もしこれが協会上層部からの停止処分であれば
これははっきり妥当性を欠くと考える。
当該行為が不適切だったとしても
行為と処分のバランスを著しく欠いている。
謝罪して早急な規定作成を図ります、
くらいなら十分妥当性を認められるけれど
行為時点で規定されていなかったものを
遡及処罰するようなことはあってはならない。
しかしながら、本人の意思として
出場を辞退するという形を採っているのであれば
これは本人の意思でしか撤回できないし
おそらくそれはしないだろう。
稚拙さ、拙速さの責任を痛感して
しばらく謹慎しますと本人が言っているのに
周りがそれを撤回しろと強要することはできない。
この点につき、他団体からの圧力があったという情報もあるが
これは不確定な情報なので論点には含めない。
あったのならばそれは不適切なものだとは思うけれど
一方で、興行のパートナーとして評価を下すのは当然でもあり
不正確な論評は控えるべきだろう。
結局のところ、麻雀プロ団体は
自らが放置してきた問題によって
いつまでも揉め事を繰り返しているということになる。
これは目無し問題だけでなく
刑法や風営法との関わりなどの問題も同じだけれど
そういう根本的な問題を放置して
普及などはありえないというのはこの機会に強く指摘しておきたい。
前回の目無し問題が紛糾してからでさえ
既に数年が経過していることを競技プロは恥じるべきだ。
4:最後に
こういった問題を解決するに際して
各団体のトップもしくは幹部による議論というのが必要なのではないか。
麻雀業界には現在、大きなスポンサーがいる。
そのスポンサー自身がどう考えているのかは不明だけれど
業界として発展させられなければ
スポンサードの効果は低いだろう。
その意味でも、有識者も交えた討論会の開催を望む。
可能ならば、各団体の上に位置する
コミッショナー的な存在を作れればなおいい。
結局のところ、麻雀業界以外の世界に対応していくには
(それがロビー活動であれ何であれ)
ちまちました個々の団体単独では難しいだろうからだ。
まぁそれは絵空事というか夢物語で
実現はしないだろうけれど
団体内部の利害から離れた人だけで作る業界統括組織があると
こういった揉め事は減るのではないだろうか。
フレンド
福地先生のブログに出ていた
愛知県にあるとある雀荘のマスター(?)の話で
ちょっと思い出したこと。
昔、僕が歌舞伎町で生きていたころ、
僕が通っていた場では僕はとても強い打ち手だった。
ピンの3-6東風ビンタ有り、2着続きでも相当浮けるルールで、
確実に黒だったと思う。
もちろん僕自身も自分を強いと思っていた。
その後歌舞伎町を離れて、僕は渋谷に場を移した。
道玄坂の途中にあるピンの2-4東風。
メンバーは競技プロが大半で、
しかも負ける者はすぐに淘汰されるような環境だった。
そこでは相当負けたと思う。
何しろ辛い場だった。
僕が歌舞伎町で打っていた麻雀は
要するに懐に余裕がある連中の道楽に合わせた麻雀だったと
つくづく思い知らされた。
たぶんそこのメンバーにも養分だと思われていたと思う。
しばらくしてようやく少しアジャストしてそこまで負けなくなったころ、
僕は天鳳と出会った。
最初は絶好調だった。そう、六段までは。
当時の天鳳は東風が圧倒的主流で、東南を打つ人はほとんどいなかった。
ポイント配分が東風と東南で同じだったからまぁ当たり前だ。
そこで僕はそれまでと同じようなトップ取りの麻雀を打ち、
当然のように負けることになった。
六段から五段に降段したりもした。
やはりそこでもトップクラスには養分だと思われていたんだろうと思う。
何故勝てないのか。
僕はひたすら自問自答した。
当時は師匠なんていうシステムはなかったから。
幸いにして天鳳には牌譜を見返すという機能が付いていただけでなく、
「できすぎくん天鳳ver.」という
自分の麻雀のデータ的傾向を数値化してくれる神機能まであった。
これが実に役に立った。
親に対してというか全般的に押しすぎていること。
終盤まで聴牌に固執しすぎなこと。
回し打ちをして結果愚形に刺さる傾向があること。
良形にこだわりすぎなこと。
全部牌譜とできすぎくんにはっきり現れていた。
観戦を通じて自分とトップレベルには
攻守どちらにおいても精度に差があることも悟った。
正直に告白すると、
僕はそのときまで牌の安全度の差さえ正確には把握できていなかった。
不惑を迎え、麻雀歴にして25年を超える打ち手にとって、
それまでの怠惰な自分を否定して
自分の麻雀を作り直す作業は決して楽なものではない。
もちろん楽しくもない。
何とか今に至るまで続けてこれたのは、
自分が立てた仮説をすぐに検証できる、
天鳳という場があったこと以外にはないのだけれど
もうひとつ言えるとすれば、
天鳳を打つことをやめなかったことだろうか。
実際の話、僕よりも強い打ち手はいくらでもいるだろうし、
もちろん今までもいただろう。
でも、天鳳でその強さを
今も信頼の置ける数字として出している人はそれほど多くない。
みんなやめてしまう。
だから、とりあえず壁にぶつかったと思っても、打ち続けて欲しいなと思う。
数字は正直だ。自分が思っている自分とは違う自分をはっきりと示す。
天鳳で10000戦ほど打っている僕の放銃率は
高くもないけれど低いとはとても言えない0.123ほどだ。
これも恥をしのんで告白するけれど
これでもずいぶん下げた方であるにも関わらず、
実は僕は、それまでも自分のことを「守備型」だと思っていたのだから。
愛知県にあるとある雀荘のマスター(?)の話で
ちょっと思い出したこと。
昔、僕が歌舞伎町で生きていたころ、
僕が通っていた場では僕はとても強い打ち手だった。
ピンの3-6東風ビンタ有り、2着続きでも相当浮けるルールで、
確実に黒だったと思う。
もちろん僕自身も自分を強いと思っていた。
その後歌舞伎町を離れて、僕は渋谷に場を移した。
道玄坂の途中にあるピンの2-4東風。
メンバーは競技プロが大半で、
しかも負ける者はすぐに淘汰されるような環境だった。
そこでは相当負けたと思う。
何しろ辛い場だった。
僕が歌舞伎町で打っていた麻雀は
要するに懐に余裕がある連中の道楽に合わせた麻雀だったと
つくづく思い知らされた。
たぶんそこのメンバーにも養分だと思われていたと思う。
しばらくしてようやく少しアジャストしてそこまで負けなくなったころ、
僕は天鳳と出会った。
最初は絶好調だった。そう、六段までは。
当時の天鳳は東風が圧倒的主流で、東南を打つ人はほとんどいなかった。
ポイント配分が東風と東南で同じだったからまぁ当たり前だ。
そこで僕はそれまでと同じようなトップ取りの麻雀を打ち、
当然のように負けることになった。
六段から五段に降段したりもした。
やはりそこでもトップクラスには養分だと思われていたんだろうと思う。
何故勝てないのか。
僕はひたすら自問自答した。
当時は師匠なんていうシステムはなかったから。
幸いにして天鳳には牌譜を見返すという機能が付いていただけでなく、
「できすぎくん天鳳ver.」という
自分の麻雀のデータ的傾向を数値化してくれる神機能まであった。
これが実に役に立った。
親に対してというか全般的に押しすぎていること。
終盤まで聴牌に固執しすぎなこと。
回し打ちをして結果愚形に刺さる傾向があること。
良形にこだわりすぎなこと。
全部牌譜とできすぎくんにはっきり現れていた。
観戦を通じて自分とトップレベルには
攻守どちらにおいても精度に差があることも悟った。
正直に告白すると、
僕はそのときまで牌の安全度の差さえ正確には把握できていなかった。
不惑を迎え、麻雀歴にして25年を超える打ち手にとって、
それまでの怠惰な自分を否定して
自分の麻雀を作り直す作業は決して楽なものではない。
もちろん楽しくもない。
何とか今に至るまで続けてこれたのは、
自分が立てた仮説をすぐに検証できる、
天鳳という場があったこと以外にはないのだけれど
もうひとつ言えるとすれば、
天鳳を打つことをやめなかったことだろうか。
実際の話、僕よりも強い打ち手はいくらでもいるだろうし、
もちろん今までもいただろう。
でも、天鳳でその強さを
今も信頼の置ける数字として出している人はそれほど多くない。
みんなやめてしまう。
だから、とりあえず壁にぶつかったと思っても、打ち続けて欲しいなと思う。
数字は正直だ。自分が思っている自分とは違う自分をはっきりと示す。
天鳳で10000戦ほど打っている僕の放銃率は
高くもないけれど低いとはとても言えない0.123ほどだ。
これも恥をしのんで告白するけれど
これでもずいぶん下げた方であるにも関わらず、
実は僕は、それまでも自分のことを「守備型」だと思っていたのだから。
麻雀の未来(長い)
麻雀プロ団体日本一決定戦というイベントがあった。
麻雀プロ団体日本一決定戦公式ページ
団体戦というのは、アニメの「咲」もそうだけど、
個人対戦が原則である麻雀というゲームに
別の楽しみ方を与えてくれる。
各団体のファン、としての楽しみ方が出てくる。
より感情移入しやすいといってもいいかもしれない。
結果としてはプロ連盟の完勝だった。
麻雀の強者はオーラスに強い、などとよく言うけれど
最終日に勝ち切るという点においては
他の団体を大きく上回っていたわけで
これは賞賛されていいと思う。
堀内プロ除名事件など、
何かと批判されることの多かった団体だけれど
短期戦とはいえ、この結果はそれなりに重い。
もちろんこれがすべての評価になるわけではない。
まるで他の団体には存在価値がないかのような論調も
一部には見受けられたが
それもまた極論というか暴論だろうと思う。
麻雀メディア関係者までもがそういう論調だったのには
実を言うとかなり辟易した。
「他団体の麻雀プロで本当に麻雀強くなりたいって思う人なら、
この結果を見て連盟に移籍しようって普通考えると思うけどね。
これからプロになりたいと思う人ならなおさら。
それだけの屈辱だったことをいい加減考えるべきですよ。」
こういう発言があったんだけど
いやいやちょっと待て、と正直思う。
麻雀というゲームの性質上、
短期戦ではいろんな紛れが起こるというのは当然なわけで
そういう意味で麻雀の楽しみ方というのは多角的なんだよというのを
麻雀ファンに認知してもらうのが
麻雀メディアの仕事だと思うのだけれど。
だってそんなこと言ったら
プロ連盟vs天鳳位対抗戦において
プロ連盟の勝又健志さんはブービーで
プレーオフにも出られなかったわけだけれど
その結果を以って
「勝又は強くなりたいなら
Nonameに混じって一般卓から天鳳で勉強して来い」
なんて言えちゃうわけでしょ?
あるいは今回のプロ連盟と天鳳位の対抗戦で
天鳳位が勝ったら
「プロ連盟は全員天鳳始めろ」
って言えちゃうんでしょ?
でもそんなこと言う人は
僕の周りの天鳳クラスタにはいなかった。
むしろ負けたけどこの勝又ってプロは強いなって
観戦していてそういう印象を持った人の方が
天鳳クラスタの中には多かったんじゃないだろうか。
それは連盟が好きとか嫌いとかではなくて
麻雀の愛好家としての楽しみ方が
単なる結果だけでどうこういうのではなく
過程をきちんと見ることも大事というコンセンサスがあるということと
この戦いに出ているプレイヤーに対する
同じゲームの愛好者としての敬意ではないかと思う。
麻雀メディアだってそんなこと言ってるけど、
かつてはプロ否定宣言まで出しておいて
今度は連盟ageかよってどうしたって思う。
ただ、その一方で
プロ連盟と他の団体に明確な差を感じることも多い。
プレイヤーの層の厚みみたいなものもそうだ。
今回プロ連盟は
重鎮クラスが出てくることはなかった。
打ち盛りのプレイヤーをきちんと選考して、そして勝った。
僕は最高位戦の金子さんが大好きだから
金子さんの対局を久々に見られて嬉しかったのだけれど
重鎮たる金子さんを出さないとだめなのかとは思った。
もっとはっきり言ってしまうと
RMUなどに至っては
選抜という作業がなされたのかどうかすら微妙だと思う。
看板選手を上から順に並べただけなのではないか。
一番新しく一番意欲的であるはずのRMUのシステムが
降格のない認定システムという硬直化しやすいものであるのも
人材不足に拍車をかけているように思う。
そのシステムで新陳代謝がスムーズに行くとは思えないから。
連盟を脱退してから10年、
果たして満足いく組織は出来たのかと
巷間に問われてもいたし方あるまい。
これは何も競技者に限った話ではない。
インターネット麻雀選手権というイベントを
プロ連盟は2年ほど前から開催している。
これ自体もなかなか意欲的なイベントだと思うが
それが今ひとつ盛り上がりに欠けているとなると
今度はずばりと天鳳位との対抗戦を企画してきた。
正直、このイベントには舌を巻いた。
連盟はロン2という自前のネット麻雀サイトを持ち
麻雀格闘倶楽部というアーケードゲームで
通信対戦も行っている。
その組織が他のインターネット麻雀サイトに
対抗戦を持ちかけてきたのだ。
企画、折衝、運営といった面で
他の団体とは完全に比べ物にならないだろう。
そこにマンパワーを割けるというのが
プロ連盟の強みなのだろう。
そういう企画や運営面での人材の発掘や育成が
他の競技団体はたぶん圧倒的に不足している。
例えばRMUであれば
もともと天鳳との親和性が高い印象があったし
天鳳名人戦にも選手が出ているわけだから
そういう団体が対抗戦を企画しても良かったはずだ。
(まして河野高志さんというヒール役もいるのだ。
いくらでも盛り上げようはあったと思う)
そういった組織運営への本気度という点で
他団体はもう少し危機感を持たねばなるまい。
これについては件のメディア関係者の指摘通りだろう。
「麻雀界をみんなで盛り上げることと、
麻雀が強くなることは別なんですよ。
一致団結大いに結構。
じゃあ、他団体の選手が連盟さんと統一すればいい、となる。
それが一番手っ取り早いから。
別団体として活動してるなら、それだけの理由を示してくれないと。
何のためにその団体はあるんですか?」
「麻雀ファン」というものを大きく分類した時、
1・フリー雀荘でリアル麻雀を楽しむ人
2・競技麻雀を楽しむ人
3・健康麻雀を楽しむ人
4・ネット麻雀を楽しむ人
と分かれていて、
それぞれが少しずつ重なっている感じだろう。
ひょっとしたらどの楽しみ方も行ける、
という人もいるかもしれないが
例えばネット麻雀しかしないという人ももちろんいるだろう。
麻雀の世界の広がりというものを考えた時に
それぞれが相反するのではなく
親和することが大事だと個人的にはずっと思っている。
ネット麻雀もリアルの麻雀も打ちます、
だけでなく、ネット麻雀も競技もフリーも打ちます、
健康麻雀もやります、
という人がどんどん出てくれば
必然的に麻雀の世界は盛り上がっていくだろう。
今回の日本一決定戦の運営であるAbemaTVは
アメブロでおなじみのamebaの会社だけれど
amebaの藤田社長が麻雀好きであることが
開催の動機になっている部分は大きいだろう。
藤田さんがどういうビジョンでやっておられるのか
もちろん僕には窺い知ることはできないのだけれど
麻雀プロの世界、ではなく
麻雀の世界、のことを考えているのであれば
単に麻雀プロ団体の日本一決定戦ではなくて
天鳳チームが出られる可能性もあるのではと
ちょっと期待したりもする。
日本一決定戦の最下位団体は
翌年は入れ替え戦から戦うことにして
麻将連合や他の競技団体と出場枠を争う形にするとかなら
天鳳チームが出場してもいいんじゃないかなと。
麻雀はプロとアマチュアの技量的な差があまりないゲームだし
競技、という点について言えば
天鳳の鳳凰卓は十分競技的だと思うから。
あるいは各団体が天鳳の強豪プレイヤーをスカウトしたりして
自軍の戦力を拡大する方向でもいいかもしれない。
もちろんそうなってくると
所属のメリットをもっと開示しないといけないけれど
それは別にその団体にとって不都合ではない(はずだ)。
いずれにしても、昨今の藤田さんの麻雀の世界へのコミットは
麻雀の世界にとっては黒船襲来に近い。
各団体の幹部は危機感と期待感の両方を
強く感じているだろうと想像する。
本当に大きな機会だと思うから、
業界の統一とかフリー雀荘の法的位置づけとか
そういうところまで進める意気込みで
運営に当たって欲しいなと期待している。
とても面白いイベントで
最後まで楽しめた。
次回以降も強く期待しています。
麻雀プロ団体日本一決定戦公式ページ
団体戦というのは、アニメの「咲」もそうだけど、
個人対戦が原則である麻雀というゲームに
別の楽しみ方を与えてくれる。
各団体のファン、としての楽しみ方が出てくる。
より感情移入しやすいといってもいいかもしれない。
結果としてはプロ連盟の完勝だった。
麻雀の強者はオーラスに強い、などとよく言うけれど
最終日に勝ち切るという点においては
他の団体を大きく上回っていたわけで
これは賞賛されていいと思う。
堀内プロ除名事件など、
何かと批判されることの多かった団体だけれど
短期戦とはいえ、この結果はそれなりに重い。
もちろんこれがすべての評価になるわけではない。
まるで他の団体には存在価値がないかのような論調も
一部には見受けられたが
それもまた極論というか暴論だろうと思う。
麻雀メディア関係者までもがそういう論調だったのには
実を言うとかなり辟易した。
「他団体の麻雀プロで本当に麻雀強くなりたいって思う人なら、
この結果を見て連盟に移籍しようって普通考えると思うけどね。
これからプロになりたいと思う人ならなおさら。
それだけの屈辱だったことをいい加減考えるべきですよ。」
こういう発言があったんだけど
いやいやちょっと待て、と正直思う。
麻雀というゲームの性質上、
短期戦ではいろんな紛れが起こるというのは当然なわけで
そういう意味で麻雀の楽しみ方というのは多角的なんだよというのを
麻雀ファンに認知してもらうのが
麻雀メディアの仕事だと思うのだけれど。
だってそんなこと言ったら
プロ連盟vs天鳳位対抗戦において
プロ連盟の勝又健志さんはブービーで
プレーオフにも出られなかったわけだけれど
その結果を以って
「勝又は強くなりたいなら
Nonameに混じって一般卓から天鳳で勉強して来い」
なんて言えちゃうわけでしょ?
あるいは今回のプロ連盟と天鳳位の対抗戦で
天鳳位が勝ったら
「プロ連盟は全員天鳳始めろ」
って言えちゃうんでしょ?
でもそんなこと言う人は
僕の周りの天鳳クラスタにはいなかった。
むしろ負けたけどこの勝又ってプロは強いなって
観戦していてそういう印象を持った人の方が
天鳳クラスタの中には多かったんじゃないだろうか。
それは連盟が好きとか嫌いとかではなくて
麻雀の愛好家としての楽しみ方が
単なる結果だけでどうこういうのではなく
過程をきちんと見ることも大事というコンセンサスがあるということと
この戦いに出ているプレイヤーに対する
同じゲームの愛好者としての敬意ではないかと思う。
麻雀メディアだってそんなこと言ってるけど、
かつてはプロ否定宣言まで出しておいて
今度は連盟ageかよってどうしたって思う。
ただ、その一方で
プロ連盟と他の団体に明確な差を感じることも多い。
プレイヤーの層の厚みみたいなものもそうだ。
今回プロ連盟は
重鎮クラスが出てくることはなかった。
打ち盛りのプレイヤーをきちんと選考して、そして勝った。
僕は最高位戦の金子さんが大好きだから
金子さんの対局を久々に見られて嬉しかったのだけれど
重鎮たる金子さんを出さないとだめなのかとは思った。
もっとはっきり言ってしまうと
RMUなどに至っては
選抜という作業がなされたのかどうかすら微妙だと思う。
看板選手を上から順に並べただけなのではないか。
一番新しく一番意欲的であるはずのRMUのシステムが
降格のない認定システムという硬直化しやすいものであるのも
人材不足に拍車をかけているように思う。
そのシステムで新陳代謝がスムーズに行くとは思えないから。
連盟を脱退してから10年、
果たして満足いく組織は出来たのかと
巷間に問われてもいたし方あるまい。
これは何も競技者に限った話ではない。
インターネット麻雀選手権というイベントを
プロ連盟は2年ほど前から開催している。
これ自体もなかなか意欲的なイベントだと思うが
それが今ひとつ盛り上がりに欠けているとなると
今度はずばりと天鳳位との対抗戦を企画してきた。
正直、このイベントには舌を巻いた。
連盟はロン2という自前のネット麻雀サイトを持ち
麻雀格闘倶楽部というアーケードゲームで
通信対戦も行っている。
その組織が他のインターネット麻雀サイトに
対抗戦を持ちかけてきたのだ。
企画、折衝、運営といった面で
他の団体とは完全に比べ物にならないだろう。
そこにマンパワーを割けるというのが
プロ連盟の強みなのだろう。
そういう企画や運営面での人材の発掘や育成が
他の競技団体はたぶん圧倒的に不足している。
例えばRMUであれば
もともと天鳳との親和性が高い印象があったし
天鳳名人戦にも選手が出ているわけだから
そういう団体が対抗戦を企画しても良かったはずだ。
(まして河野高志さんというヒール役もいるのだ。
いくらでも盛り上げようはあったと思う)
そういった組織運営への本気度という点で
他団体はもう少し危機感を持たねばなるまい。
これについては件のメディア関係者の指摘通りだろう。
「麻雀界をみんなで盛り上げることと、
麻雀が強くなることは別なんですよ。
一致団結大いに結構。
じゃあ、他団体の選手が連盟さんと統一すればいい、となる。
それが一番手っ取り早いから。
別団体として活動してるなら、それだけの理由を示してくれないと。
何のためにその団体はあるんですか?」
「麻雀ファン」というものを大きく分類した時、
1・フリー雀荘でリアル麻雀を楽しむ人
2・競技麻雀を楽しむ人
3・健康麻雀を楽しむ人
4・ネット麻雀を楽しむ人
と分かれていて、
それぞれが少しずつ重なっている感じだろう。
ひょっとしたらどの楽しみ方も行ける、
という人もいるかもしれないが
例えばネット麻雀しかしないという人ももちろんいるだろう。
麻雀の世界の広がりというものを考えた時に
それぞれが相反するのではなく
親和することが大事だと個人的にはずっと思っている。
ネット麻雀もリアルの麻雀も打ちます、
だけでなく、ネット麻雀も競技もフリーも打ちます、
健康麻雀もやります、
という人がどんどん出てくれば
必然的に麻雀の世界は盛り上がっていくだろう。
今回の日本一決定戦の運営であるAbemaTVは
アメブロでおなじみのamebaの会社だけれど
amebaの藤田社長が麻雀好きであることが
開催の動機になっている部分は大きいだろう。
藤田さんがどういうビジョンでやっておられるのか
もちろん僕には窺い知ることはできないのだけれど
麻雀プロの世界、ではなく
麻雀の世界、のことを考えているのであれば
単に麻雀プロ団体の日本一決定戦ではなくて
天鳳チームが出られる可能性もあるのではと
ちょっと期待したりもする。
日本一決定戦の最下位団体は
翌年は入れ替え戦から戦うことにして
麻将連合や他の競技団体と出場枠を争う形にするとかなら
天鳳チームが出場してもいいんじゃないかなと。
麻雀はプロとアマチュアの技量的な差があまりないゲームだし
競技、という点について言えば
天鳳の鳳凰卓は十分競技的だと思うから。
あるいは各団体が天鳳の強豪プレイヤーをスカウトしたりして
自軍の戦力を拡大する方向でもいいかもしれない。
もちろんそうなってくると
所属のメリットをもっと開示しないといけないけれど
それは別にその団体にとって不都合ではない(はずだ)。
いずれにしても、昨今の藤田さんの麻雀の世界へのコミットは
麻雀の世界にとっては黒船襲来に近い。
各団体の幹部は危機感と期待感の両方を
強く感じているだろうと想像する。
本当に大きな機会だと思うから、
業界の統一とかフリー雀荘の法的位置づけとか
そういうところまで進める意気込みで
運営に当たって欲しいなと期待している。
とても面白いイベントで
最後まで楽しめた。
次回以降も強く期待しています。
個人的メモ
昨日の件で、少し補足というか別の話。
論点がいろいろある話なので
個人的に整理しておきたいというのもある。
レートの有無や高低で全員が足並みを揃えられない時に
そのギャップを埋めるためのものが差し馬だと思っているので
それ自体は仕方がないんじゃないかと思っている。
カイジの17歩とか天の二人麻雀をやる方が良かったんだろうけれど。
ただし、店側と同卓者はそうはいかないので
福地先生はその辺には注意しなければならなかった立場だと思う。
ギャンブルは自分の責任で行う大人の遊びだと僕は思っているんだけど
法律的な話はまた別の話で
麻雀について言えば、同卓者は賭博の幇助に問われる可能性が高い。
麻雀の対局の結果によって差し馬をしている人が財物の得喪を争うわけだから
麻雀の対局を成立させる行為が幇助に当たるわけだ。
となると、プロなどが入るのはちょっと具合が悪いし
入るなら差し馬の件などは大々的には言うべきではない。
(レートが乗っていたら当然幇助ではなくて正犯なんだけど
それはチョコレートと書いてあったような気がする。
もちろん実際の実行行為は確認できなかった)
店が具合が悪いのは言うまでもないだろう。
公言した時点で周りを巻き込む形になっている以上
福地さんは叩かれても仕方がない。
この点について、通報されてもおかしくないからだ。
もちろん賭博をすることそのものを批判する人もいるだろう。
1・賭博をすることそのものやそれを公言することについての議論
2・賭博行為が当事者間で完結していると誤認して周りを巻き込んだことについての議論
この2点は少し異なる論点だ。
更に言えば、プロが幇助に該当するかどうか分からなかったとすれば
それ自体も批判されるべきだろうとも思う。
3・関連法規について競技プロが無知あるいは無関心であったことについての議論
上記に加えて、不正者に対してどう対応すべきかという論点がある。
4・ネットでもリアルでも不正者に関わるべきではないのかという議論
5・不正者に関わることが不正を助長するかという議論
6・不正者に関わることが天鳳のコミュニティ文化を変質させるかという議論
また、これらの論点の前提として
A・不正であったかどうか
B・運営の制裁や対応は適切だったか
C・不正の常習者には累犯加重のような制裁が必要なのか
も論点としてはあるだろう。
これらの論点それぞれにそれぞれの意見が出てくるから
議論が混乱するんだろうなと思ってみている。
もちろん他にも論点はあるのかもしれないので
気づいた時点で付記していくつもり。
でも論文試験に出されたら時間内に書けないねこれ。
論点がいろいろある話なので
個人的に整理しておきたいというのもある。
レートの有無や高低で全員が足並みを揃えられない時に
そのギャップを埋めるためのものが差し馬だと思っているので
それ自体は仕方がないんじゃないかと思っている。
カイジの17歩とか天の二人麻雀をやる方が良かったんだろうけれど。
ただし、店側と同卓者はそうはいかないので
福地先生はその辺には注意しなければならなかった立場だと思う。
ギャンブルは自分の責任で行う大人の遊びだと僕は思っているんだけど
法律的な話はまた別の話で
麻雀について言えば、同卓者は賭博の幇助に問われる可能性が高い。
麻雀の対局の結果によって差し馬をしている人が財物の得喪を争うわけだから
麻雀の対局を成立させる行為が幇助に当たるわけだ。
となると、プロなどが入るのはちょっと具合が悪いし
入るなら差し馬の件などは大々的には言うべきではない。
(レートが乗っていたら当然幇助ではなくて正犯なんだけど
それはチョコレートと書いてあったような気がする。
もちろん実際の実行行為は確認できなかった)
店が具合が悪いのは言うまでもないだろう。
公言した時点で周りを巻き込む形になっている以上
福地さんは叩かれても仕方がない。
この点について、通報されてもおかしくないからだ。
もちろん賭博をすることそのものを批判する人もいるだろう。
1・賭博をすることそのものやそれを公言することについての議論
2・賭博行為が当事者間で完結していると誤認して周りを巻き込んだことについての議論
この2点は少し異なる論点だ。
更に言えば、プロが幇助に該当するかどうか分からなかったとすれば
それ自体も批判されるべきだろうとも思う。
3・関連法規について競技プロが無知あるいは無関心であったことについての議論
上記に加えて、不正者に対してどう対応すべきかという論点がある。
4・ネットでもリアルでも不正者に関わるべきではないのかという議論
5・不正者に関わることが不正を助長するかという議論
6・不正者に関わることが天鳳のコミュニティ文化を変質させるかという議論
また、これらの論点の前提として
A・不正であったかどうか
B・運営の制裁や対応は適切だったか
C・不正の常習者には累犯加重のような制裁が必要なのか
も論点としてはあるだろう。
これらの論点それぞれにそれぞれの意見が出てくるから
議論が混乱するんだろうなと思ってみている。
もちろん他にも論点はあるのかもしれないので
気づいた時点で付記していくつもり。
でも論文試験に出されたら時間内に書けないねこれ。