Polyhedron

フットボールと天鳳と、時々アンダーグラウンド。

The Outcasts 外伝~An unidentified woman vol.1~

カジノに限らない話であるが
アングラの世界では従業員の食事は店が用意することが多い。
いわゆる「賄い=まかない」と呼ばれるものだ。

自炊して職場に弁当を持参するような
生真面目な人間がいるような世界ではないというのもあるが
食事の買出しのための外出などで
あまり人間の出入りを多くしたくないというのもある。
看板も出していない雑居ビルのフロアに
頻繁に人が出入りしていれば怪しまれるからだ。

当然、出前を取るわけにもいかないから
アングラカジノにおいては客に食事を提供するためには
きちんとした厨房とコックを用意することになる。

カジノ遊びというのは基本的には
ある程度裕福というか遊び金のある層のするものだから
そういう人々にあまりいい加減な食事などを出すわけにも行かない。

そんなところをケチって良客を逃すのは
どう考えても割に合わない。

ただ、場合によっては
どうしても厨房の無い物件で営業せざるを得ないこともある。
急いでハコを移らないといけない時には
そういった点に目をつぶってでも
早く営業できる物件を見つけないといけないからだ。

そういう時は、予め寿司や弁当などを用意しておくことになる。
もちろんちゃんとした寿司屋の寿司だし
弁当も焼肉や鰻の専門店が作る1つ2000円はする弁当だ。

従業員の食事はどうするかというと
もっと安い弁当やその日に残ったものということになる。

とある時期に僕が働いていた店も
厨房のスペースが取れないような狭い店で
そういった形で客や従業員に食事を摂らせていた。

こんな世界とは言え、食べるものというのは意外に大事で
これが粗末だと従業員の不平不満が鬱積したりする。
上の人間や客ばかり良い物を食いやがって、などというところから
ヨコ(横領のことだ)を企まれることだってあるのだ。

だから、ある時期から従業員用の安弁当を用意するのを止める代わりに
その分を毎日個別に現金で支給するようにしていた。

大したものを食わせてやれないなら
せめて仕事が終わってから好きなものを食え、ということだ。

そして、客用の弁当が余ったら
それは自由に食わせてやっていた。

どれくらいの数の食事が出るかというのは
飲食店ではないカジノにおいてはなかなか計算が立たないので
どうしても用意した弁当のロスは出てくるわけだし
どうせ捨ててしまうのであれば
せめて有効に使いたいという思いがあった。

しばらくの間は、それでうまく回っていた。

食事代を支給してもらえるだけでなく
客が食べなかった高級弁当も残ればもらえるということになれば
むしろ得をしたと思う者も多いからだ。

ところが。

営業しているうちに、一つ厄介ごとが発生した。

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The Outcasts 31

それは、ある5月の土曜日の昼過ぎのことだった。

僕は待ち合わせの場所に向かう為に、電車に乗っていた。
5月にしては暑い日で、電車の中には半袖の人もいれば
上着を脱いで手に持っている人もいた。

目的地の改札は一番前の車両が近いことを僕は知っていたから
予め先頭の車両に乗り込んだ。
その方が効率もいいし、車内も空いている。

たかだか2,30分のことだから
立っているのは別に構わないけれど、
自分の周りのプライベートエリアは広い方がいい。
たとえそれが可変性であることを知っていたとしてもだ。

すぐ傍で、笑い声がする。
子供の、楽しそうな笑い声だ。
小さな声で歌を歌っているのもかすかに聞こえる。

線路は続くよ どこまでも・・・

声のする方を向くと、どこか行楽地へでかけるのであろう親子連れが
運転席の横の窓から、前方に伸びる線路を見ていた。
小学校低学年か、あるいはまだ幼稚園か。
懸命に背伸びをしながら進行方向の窓から前方を見ている。

前を見渡せるってどうしてあんなに楽しいんだろう・・

自分の少年時代を思い起こしながら、
僕はふと、そんなことを思う。

行く手には、ただ二本の線路が平行に伸びているだけの景色だ。
そして時々、対向列車とすれ違うだけだ。それも一瞬。
それなのに、列車の先頭車両から前方を見るのは
子供の頃はもちろん、大人になっても楽しかったりする。

やがて目的地へ着き、僕は列車を降りる。
日本有数のターミナル駅の自動改札は横にずらりと広がり
各地から到着した列車から降りた人々がひっきりなしに吐き出され、
それと同じくらいの人々が、吸い込まれていく。

改札を少し出た先・・10mほどの距離だろうか・・には、
JRの子会社の旅行会社のパンフレットを置くスペースがあって
そこで待ち合わせている人もかなり多い。

そこからなら、改札から出てくる人を見逃さないし
後ろにはパンフレットがあるから通行の邪魔にもならないからだ。

僕はそこに佇む人々を横目で眺めながら通り過ぎようとして
ある男に目を留めた。

男は、背丈は僕より少し小さいくらい、170の後半くらいだろう。
髪は短く刈り揃えられている。
大きく盛り上がった肩と、分厚い胸板を見ると
おそらく体重は僕より重いだろう。
ただし、鈍重な感じはまるでなく、普段から体を鍛えていることが良く分かる。

半袖の白いシャツの上に、アウトドア用のカーキ色のベストを着ている。
ポケットが沢山付いていて、背中がメッシュになっているような物だ。

そして男は、僕のことなどまるで視界に入らないかのように
じっと改札の方を見ている。

(でかいやつだな・・・)

そんなことを思いながら、僕は男の少し横まで歩みを進める。
そして、僕と男が2,3mほどの距離まで近づいた瞬間、
僕は、男の数m横にも似たような服装をした男がいることに気づいた。

色は違うけれど、やはりアウトドアベストをシャツの上から着ている。
二人が並んでいれば、当然連れだと誰もが思うはずだけれど
彼らはまるで知らない人間同士であるかのように少し離れて立っていた。
そして、二人とも改札の方をじっと見ていた。

すれ違いざまに、その目付きの鋭さに僕は気づき、
その瞬間、僕の体に電流が走る。
忘れかけていた感覚が、体の奥から蘇ってくる。
この感覚は間違いない。

そ知らぬ顔ですれ違いざまに、僕は一瞬だけ下に目を落とし
彼らの履いている靴を見た。
やはりそれは動きやすい運動靴だった。
逃走された場合に革靴だと追いかけにくいから
彼らは変装する場合を除いては、外での張り込みには運動靴を履く。

そう。彼らは私服刑事だ。

さらに僕は、彼らとすれ違ってしばらく歩いてから
もう一度振り返って、自動改札の両端にも目を向けた。
思った通り、そこには似たような雰囲気を纏った男たちが
二人一組で改札の方を向いて佇んでいた。

もちろん彼らは僕を捕らえるためにそこにいるわけではない。
彼らの見つけるべき対象は僕ではない別の人物だ。
ただし、彼らは間違いなく僕を観たはずだ。
頭に叩き込まれた対象者と違うことを確認する作業を瞬時に行ったはずだ。

一瞬も視線が合わなかったとしても、
彼らは改札から出てくる人間を見落とすことはない。

駅の外へ足早に向かいながら、僕は彼らの視線の鋭さを思い出す。
もう、ずいぶん昔のことなのに、その射抜くような視線は
僕の心に波を立て、僕は自分の鼓動が早くなったのを感じる。

そして僕は、その視線のもたらす居心地の悪さと共に
バスに乗り込むシミズの姿を思い起こした。

シミズは、一時期僕の下で働いていた黒服だった。
客あしらいの上手い男で、機転も利いた。
勤務態度も真面目だったし、博打場というものも良く理解していた。

だから初めてシミズの仕事ぶりをみてすぐに
この男は使える、そういう印象を僕は抱いた。

ある日、ちょっと難しい客が来店した。
金は持っているけれど、気が利かない者を嫌うタイプ。
黒服の受け答え一つで機嫌が良くも悪くもなるし
些細な受け答えにいちいち突っ込んでは不機嫌になるような客だ。

例え真面目だとしても、鈍かったり口の重い者は
そういったタイプの客には好まれない。
ひたすら粗相がないようにするのが精一杯で
機嫌よく遊ばせて(結果的に負けさせて)いくことは難しい。

「こないださぁ、六本木の○○で200万負けちまったからな
今日はがっつり勝たないとな」

入ってくるなり、その客がこんなことを言った。
黙って愛想笑いを浮かべているだけでは論外なのは言うまでもないが
答え方もなかなか難しい。

「はい。頑張って勝ってください」

こんな答えを返したとしても

「心にもないこと言いやがって。
どうせ負けていけばいいとか思ってるくせに」

などと突っ込まれるのが落ちだ。

「いやー、勘弁してください」

これはもちろん店の本音であり、
言い方によっては笑いが取れるだろう。
けれど、この客にそんなことを言ったなら、

「何だよ勘弁してくれって。俺に負けていけってのか」

などとなってしまうのは目に見えている。
そういうことを言って従業員が困惑するのを楽しむような部分さえある。

キャッシャーにいた僕が、急いでホールに出ようとした瞬間、
シミズがすかさず

「社長、江戸の敵は江戸でお願いしますよ~」

と返し、僕は思わず(ほう)と心の中でうなった。
負けは勝って取り返せと言いながらも、それはあくまで○○の店の話で
自分の店の収支には言及しないところが巧みなわけだ。
しかもただのお調子者と思われないだけの語彙も示せる。

言うまでもなく、アングラの世界ではこういうタイプは非常に少ないし貴重だ。
こういう人間を見つけたら、なるべくならしっかりと確保したい。
待遇を良くしてやり、しかるべきポストも与える。
そうすることで店が上手く回っていけばいいのだ。

だから僕も、頃合を見計らって
シミズの待遇を上げてやるつもりでいた。
ある程度の権限を与え、経費も使わせる。
そうすることで、シミズ自身が呼べる客が来るだろう。
結局それが店を潤すわけで、そうするのが当然でもある。

ところが実際には、僕はそうしなかった。

シミズにはそれをためらわせる一面があったのだ。
それが分かるまで、そう時間はかからなかった。

シミズの待遇を上げようと思い始めてから
僕はシミズの働く時間帯の責任者やディーラー、
更にはシミズが以前働いていた店にいた共通の知人に
シミズの評判をそれとなく訊いて回った。

上の人間がいる場とそうでない場で態度がまるで違うことなどざらにあるし
新しく入った店で猫をかぶっているだけのことも良くある。
自分の目を信じるしかない商売だけれど
自分の目だけを当てにすると失敗も多い。
人間の本性はそう簡単に分かるものではない。

ディーラーの評判は概ね良かった。
ディーラーの使い方、接し方、あるいは出勤管理のしかたなど
好意的に捉えている者が多かった。
少なくとも、横柄でもなければ怠慢でもなかった。

責任者の見方も、仕事に関しては似ていた。

「使えるとは思います」

僕がシミズについて尋ねると、責任者はそう答えた。

「何か他にあるのか?」

僕は重ねて尋ねた。
表現に少し含みがあるような気がしたからだ。

「そうですね・・・少し金に辛いような気がします。
待遇のいいとこいいとこを渡り歩いてきたみたいですし
うちよりもいい待遇の店があればさっさと移るでしょうね。
義理とか忠誠心とかはあんまり無いように思います」

そして、シミズが以前働いていた店にいる知人は
僕が電話をかけてシミズについて尋ねるとこう言った。

「良くも悪くも金にはキッチリしてるよ。
誤魔化したりはしないけれど、金にはうるさい。
店閉めてる時の補償のことでうちの上と揉めて辞めてったしね」

この世界では、時々何らかの理由で
(主に摘発逃れのためにだが)
店を臨時休業することがある。

数日間のことであれば、月給制の黒服は
そのまま月給分が支給されるのだけれど
それが長期になったりする場合に全額出ることは逆に稀だ。

ある時点で区切ってしまって
それ以降は半額支給などになってしまい
それに不満な者は辞めていい、というスタンスを採る店が多い。
店の売り上げが0なのに人件費を払うのは経営的に厳しいからだ。
もちろん、代わりなど幾らでもいるであろうという魂胆もある。

その代わり、働いている側も忠誠心や帰属意識など持たずに
さっさと見切りを付けていくのが普通の感覚になる。
完全に金でだけつながったドライな関係を作っているのだ。

お互いそういうところでは納得づくで働いているわけなのだけれど
時々、その知人の言うような揉め事も起きる。
一円でも多くもらいたい人間と払いたくない人間がぶつかるわけだ。

おそらく、シミズは閉めている間の給料の支給額について不満を持ち
それで経営者側と衝突したのだろう。

あまり好ましいことではないけれど
ある意味当然のことでもあるから
僕は軽く相槌を打ちながら話を切り上げようとした。

ところが、その知人は最後にこんなことを言ったのだ。

電話を切ろうとした僕に、
知人は、ふと思い出したかのように言った。

「そうそう、あいつすげぇ寒がりだから気をつけてね。
多分それで揉めることもあると思うよ」

寒がり、というのはもちろん気温とか冷え性とかそういうことではない。
摘発などに非常に敏感、悪く言えば怖がりという意味だ。

もちろん誰だって摘発を望むはずは無いわけだから
その心理はみな共通はしている。
がしかし、だからといってそれをあまりに露にするのは百害あって一利なしだ。

特に、上の立場の人間がそれをやってしまえば
下に付く人間は動揺するに決まっている。
言ってみればここは戦場なのだ。
弾丸を怖がってびくびくしている将校に誰が着いていくだろうか。

所詮は切った張ったの世界であり、いつ踏み込まれても不思議は無い。
それを覚悟して働けないなら、安全な仕事を探した方がいい。

僕はその言葉を聞いて、シミズを抜擢するのは
もう少し様子を見てからにしようと決めた。
覚悟の無い人間を登用しても仕方が無い。

この街でこの商売をやっていれば
覚悟の有無を明らかにする機会は幾らでもある。
それをじっと観察するつもりだった。

そしてその機会は、思ったよりも早く訪れた。

歌舞伎町には、多ければ10軒以上の、少ない時期でも5,6軒のカジノがある。
流行っている店もあれば、閑古鳥が鳴く店もあるし
摘発を受ける店も中にはある。

それぞれの店で、摘発対策の情報取りなどはしているはずだけれど
結局のところ、100%の情報などまず無いし
どれだけ気を使っていてもやられる時はやられる。

「今月あたりは寒いらしい」
「○○が狙われているらしい」
「いや、▲▲に内偵が入ってるらしい」

そんな噂が飛び交うことも多い。
当たっていることもままあるけれど、たいていはただの噂だ。

というか、過去数ヶ月に摘発が無ければ、
その後数ヶ月以内に摘発が行われる可能性は高まっているし
もともと多くても10数軒の店しかないのだから
そのうち古い方の店を挙げれば、新しい店よりも摘発の可能性は高い。

占いみたいなもので、何でも信じていては始まらない。
競合他店がわざとそういう噂を流しているケースだって少なくないのだ。

そんな折、僕が仕切る店が危ないという噂が出始めた。
僕の知る限り、そういう情報は入ってはいなかったけれど
それが本当の話でも不思議は無い。

いや、正確に言うならば、おそらくそれは本当の情報ではないけれど
結果的に的中したとしても不思議は無い、ということだ。

当時の店は、その時点で既に2年近く営業していて
歌舞伎町の中でも比較的古い部類に入っていた。
であれば、なおさらのこと、突然X-DAYが来てもおかしくは無い。

街中に流れるくらいの情報であれば
それは当然、僕が持つ情報筋からも入ってくるはずだ。
それが入ってこないということは、情報自体の信憑性は低い、
気持ちの良いものではないけれど、僕はそう判断していた。

ところが、ある日のミーティングで
シミズが猛然と休業を主張し始めた。

シミズの主張はこうだった。

「これだけ噂になっているのだから
しばらく店を閉めて様子を見た方がいい。
寒い思いをするのは現場で働くこっちなんだから
そんな精神状態じゃ落ち着いて仕事も出来ないし数字も上がらない」

もちろん、僕はそれを却下した。

店を開ける、閉めるという権限はオーナーだけでなく
僕にも持たせてはもらっている。

けれど、それは自分なりの情報筋を持ち、
そこからの情報を元に判断していくものであって
周囲の店舗が全て閉めているといった緊急事態で無い限り
噂だけでいちいち閉めていては商売にならないからだ。

僕がそう言うと、シミズは不服そうに

「そんなんじゃこっちは安心して働けないですよ」

などと言う。

ああ、やっぱりこいつは覚悟の無い奴なんだ、

僕はそう判断せざるを得なかったし、そういう気質の人間に対して
苛立ちのようなものを感じざるを得なかった。
だから、僕は、少し強い口調で

「いや、この商売、安心して働ける日なんかないから。
それが嫌なら業界上がるしかないぜ」

そんなことを言った。
シミズは不服そうだったけれど、
その場はそれで終わり、店はいつものように動き始めた。

数日後のことだった。
シミズが僕のもとへやってくると店を辞めるという。

「寒い思いして働きたくないんで上がらせてください」

そう言われれば、こちらに引きとめる術は無い。
もとより引きとめるつもりも無い。
いつ辞めるのかと尋ねると、できればその日で辞めたいと言う。

店には店の退店規定があって、
一応一週間以前の申し出、ということになっていた。
人員補充の都合もあるからだ。

けれど、僕としては一ディーラーならともかく
辞めたがっている黒服を現場に出すのが嫌で
僕は給与を日割り計算で支給することだけ伝えて
その日の退店を認めた。

幸い代わりの人間もすぐ見付かった。
黒服としてのシミズがいなくなったのは痛いことは痛かったが
店の存続に関わるほどの人材ではないわけで
代わりが来ればそれなりに穴は埋まった。

そして、シミズが店のすぐ近くに出来た
(道路を挟んで斜め向かいのビルだった)
別の店に移ったというのも間もなく耳に入ってきた。
どうやら責任者クラスの待遇で入ったらしく、人集めに奔走しているようだった。

なぜそれが分かったかと言うと、
シミズが何人かのディーラーに引き抜きのモーションをかけたからだ。

「そこはそろそろ危ないからこっちに移ってこいよ」

そんなことをまことしやかに囁いて、
シミズは僕の店で働くディーラーに声をかけたらしい。
実際に、2人ばかりそれで店を移った。

思ったより少なかったのは
その動きを僕に教えてくれるディーラーがいたからだ。
僕がずいぶん可愛がっていたディーラーだったけれど
彼は、休憩室で他のディーラーがいる前でわざとそれを教えてくれた。

「なんかシミズさんがこんな話振ってきたんですけど知ってます?」

そう言われれば、僕としてはすぐに反応せざるを得ない。

「なんだそりゃ。引き抜きとかしてくるのか」

特に怒って見せる必要は無い。
引き抜きの動きが店の責任者クラスの耳に入る、
これが引き抜く側に伝わるだけで、まずその動きは止まる。

アングラの業界でもそれはご法度だからだ。
こじれればそれなりに大変なことになる。
それでも移りたいというディーラーはしょうがないが
そこまでして移る者もあまりいない。

新規オープンのカジノが安定するのが大変であることくらいは
末端のディーラーでも知っているからだ。
店が潰れてしまえば、安全も何も仕事そのものが無くなる。

そうしてしばらくの間、平穏な日々が続いた。
店が摘発されることもなく、噂も次第に消えていった。

そんなある日のことだった。

僕は客のところへ顔を出しに行った。
いわゆる「営業」というやつで、客の経営する店などに顔を出して金を使い
客に自分の店に遊びに来て貰うのだ。

帰りがけに、店の近くで煙草を吸いながらしばらく佇む。
誰か知っている客が通らないかというのもあるし
何となく、街の雰囲気を知るというのも大事なことだ。

景気が良さそうだとか、何が流行っているのかとか
知っていて損の無いことは街中にも山ほどある。

そして僕は、ビルの陰の目立たないところに立っている
二人連れの男に気づいた。
彼らは、歌舞伎町の住人とは明らかに違う雰囲気を纏っていた。

目付き、服装、履いている靴・・・
僕はそれが私服刑事であることをすぐに察した。
思わず足を止めた僕の脇から、冷たい汗が流れた。

私服刑事も極道も、雰囲気自体はあまり変わらない。
どちらも、僕らのような人間とは明らかに異質の人間だ。
けれど、彼らを分ける決定的な違いがある。

地回りの極道は、縄張りの中で目立たないように振舞うことは絶対にない。
いわば目立つのが彼らの仕事であり、飯の種なのだ。
ビルの陰に隠れるように立つことなどまずありえない。

彼らは僕の店のあるビルの隣のビルの物陰に立ち、
やや斜め前方を何事か会話をしながらじっと見ている。

どこを見ているんだろう・・・

僕は自然を装いながら、遠目に私服刑事を観察する。
どこを見ていたかははっきりとは確認できなかったけれど
程なくして彼らはそのまま立ち去って
僕は、彼らが見ていたのが自分の店ではなさそうなことに少し安堵した。

もしかしたら、何かの事件の捜査だったのかな・・・

僕はそんなことを思いながら店に戻り
そのまま半月ほどが経過した。
緊張感は失われてはいなかったけれど
言ってみればそんなことをいちいち気にしてなどいられないのだ。

そしてある日、店の上のフロアにある事務所兼モニター部屋に入り
僕は何気なく窓を開けて外を見下ろした。

様々な人々がひっきりなしに行きかい、
タクシーが誰かを乗せ、誰かを降ろす。
良く見かけるキャバクラのキャッチや客引き。
僕の店のシキテンもいたし、シミズの店のシキテンもいた。
いつもと変わらない、歌舞伎町の風景がそこにはあった。

その時だった。

電柱に寄りかかりながら携帯で話しているように見えた男が
突然走り出して誰かを羽交い絞めにして怒鳴った。
すぐ近くから、別の男が口々に何かを怒鳴りながら数人走り出てきた。
一人は筒のようなものを抱えている。

そして男たちはあるビルの入り口に走り寄った。
そのビルは、1階から上のテナントはエレベーターホールから入り
地下のテナントは独立した入り口を持っている作りになっていた。
確か、ドアを開けるとすぐ階段になっていて、
そこから下に降りていくようになっているはずだった。

そう、僕がそれを知っているのは
そこに入っているテナントがカジノだったからで
現在はシミズの店だったからだった。

羽交い絞めにされていたのはシミズの店のシキテンで
内部に連絡を取れないようにインカムなどは取り上げられていた。
そして、筒に見えた物は金属用のガンカッターで
男がそれを鉄扉の隙間に差し込んだ直後、

ガチン!

という金属音がして、すぐに男が扉を開き
いつの間にか数十人になっていた捜査員が突入していった。
わずか数十秒の間の出来事だった。

捜査員の突入というのは一瞬が勝負で
摘発の際に一番問題になるのもそこだ。
賭博開帳などは現行犯での摘発が通常なので
長引いては証拠自体が隠滅されてしまうからだ。

だから彼らは、摘発対象になる物件を徹底的に調べる。
裏口の有無、扉の素材、監視カメラの数や角度。

ガンカッターも使えないようなカバー付きの鉄扉であれば
彼らは今度は壁をぶち破る。
別の摘発の際に入り口横の壁をぶち破ったことがあって
捜査が終わった後に見に行ったら、入り口の横に大きな穴が空いていた。

物件の大家にしてみればとんだ災難だけれど
それに文句を言ったり弁償を求める者はいない。
そんなことをしたら、自分も幇助で引っ張られかねない。

アングラカジノと知っていてテナントを貸せば、当然それは幇助に問われる。
だから、カジノでもいいから貸したいと考える大家は
間にクッションになるダミーの借主を挟むのが普通だ。

ダミーになる借主はもちろん、又貸しの形を取るのだけれど
まさか又貸しした相手がカジノをやるなんて思わなかったと主張するし
そういう主張に沿った契約書を作成しておく。

けれど、それはあくまで建前の話であって
それを通すかどうかは言ってしまえば警察の腹一つだ。
カジノに貸しておきながら弁償を言ってくる大家のビルなど
徹底的に締め付けて閑古鳥が鳴くようにしてしまうことだって簡単だ。
どうせ他の物件だってろくな店子などいないのだ。

だから警察はそんなことお構い無しに穴をぶち開けるし、
必要であれば、あさま山荘事件で使ったような
大きな鉄球だって彼らは用意するだろう。

扉が開いて、捜査員が数十人突入していった後、
僕はしばらく呆然としながらその様子を眺めていたのだけれど
ふと我に返って自分の店の対応に移った。

客に事情を説明してゲームを切り上げてもらい
その日はそのまま閉めるように指示を出した。

摘発の時くらいおとなしくしていないと
今度は自分の店に目を付けられたら困るという心理と
なかなか落ち着いて仕事も出来ないという心理があるのだ。

もちろんそれは客も同じで、
落ち着いて遊べないからか、文句を言う者はいない。

中には「むしろ今が一番安全だろ」などと冗談交じりに言う者もいるが
店が閉めること自体に不満を言うことはあまりない。
歌舞伎町じゃなくても、他の街にもカジノはいくらでもあるから
どうしても博打を打ちたければ、他の街に行けば済むことだからだ。

その時も、ものの10分ほどで客は全て外に出て
従業員も三々五々帰宅し始めた。

それを確認してから僕は、ビルの外に出て
シミズの店の側まで行ってみた。

アングラカジノが摘発されてから
捜査や押収品の搬出が終わるまで
だいたい2,3時間はかかるのが普通だ。

客も従業員も被疑者として
首から日時などを書き込んだ札を下げ
三方向から写真を撮られてから
腰縄を付けられて護送車などに乗り込まされる。

ただし、その時にテーブルに着いていたディーラーや
キャッシャー、黒服、名義人などの重要な容疑者は
チップやカードなどを指差した写真も撮られるために
客や下っ端の従業員よりは出てくるのが遅くなることが多い。

僕が店の側まで行った時は
まだ誰も連行されて出てきてはいなかったが
物々しい雰囲気に野次馬があちこちから集まってきていた。

そして、捜査員が大きな声で野次馬を散らしているうちに
大型の護送車がビルの前に横付けされ、
捜査員が一人ずつ付いて被疑者たちが連行されて乗り込んでいく。
客の場合は、たいてい罰金刑で済むこともあってか
参ったなぁという程度の表情であることが多い。

逆に従業員の場合、ほとんどの者は、俯き加減で出てくる。
中には虚勢を張ってなのか薄笑いなどを浮かべている者もいる。
僕の店に在籍していたディーラーも中に混じっていた

野次馬が一番盛り上がるのはこの瞬間だ。
知り合いがいないかと心配する者も中にはいるだろうが
ほとんどは、他人の不幸を嘲り笑うことで
自分の立っている地面の確かさをもう一度確認する。

そして、護送車が走り去る。
彼らは、都内のあちこちの留置場に分散して入れられ
それぞれ取調べを受けることになる。

それから、押収品が搬出されてくる。
トラックが横付けされて、体格の良い捜査員たちが
軍手を嵌めてバカラテーブルやルーレットのウィールなどを運び出してくる。
かなり重い物のはずだけれど、彼らはさほど苦労しているようには見えない。
あっという間にそれは終わり、トラックが走り去る。

もうこの頃には野次馬はほとんど残っていない。
残っているのはだいたい僕ら同業かゲーム屋などの似た仕事、
あるいは地回りの人間だ。
先ほどまで大声で野次馬を散らしていた警官ももうおらず
僕らはビルのほとんど真横まで近寄ることが出来る。

そして最後に、白いバンがビルの前に停まる。
運転していた男が、店の中に入っていき
しばらくすると、また数人の人間が出てきた。

彼らは腰縄だけではなく、手錠を掛けられている。
名義人やキャッシャーなどの重要被疑者だ。

そしてその中に、シミズがいた。
おそらく責任者クラスとして捕らえられたのだろう。

シミズは、やや斜め下を見ながら出てきたのだけれど
バンに乗り込む寸前に、顔を上げて周囲を見渡した。
特に何かを見るというよりは
ただ辺りを見渡す、そんな感じの動作だったけれど
その視線がシミズをじっと見ている僕の視線と重なった。

その刹那。

シミズはなんとも言えない微妙な表情を浮かべて、下を向いた。
屈辱と羞恥と哀愁の入り混じった、そんな複雑な表情だった。

流れ弾は、臆病者に当たるんだ。

そう言って、かつて反目に回ったシミズを笑うこともできただろう。
けれど、僕にはどうしてもそれが出来なかった。

シミズを乗せた車が走り去り、今度は完全に誰もいなくなった。
直前までここで行われていた摘発劇のことなど誰も覚えていないかのように、
いつもと同じ街の風景がそこには広がっていた。

シミズの表情を思い浮かべながら
僕は、自分の車に乗り込んで、家へと向かった。
いつか僕も、あの立場になるかもしれない、
そう思うと、無性に憂鬱になった。

そして僕は、それを振り払うように
携帯電話を取り出して、明日の開店準備の指示を従業員に廻し、
常連客に営業電話をかけ続けた。

その時の僕には、そうするしか出来なかったから。

たとえいつか、その日が来るとしても
それが、当時の僕の唯一の生きる術だったから。

The Outcasts 30

「歌舞伎町は暖かいですよね。
って言ってもデコスケのことじゃないですよ、気温の話です。
寺一つ越えるたびに気温が一度違うって
いつもおれら言ってたんですけど」

あれは何年前だっただろうか。
ちょうど今の時期くらいの寒い日だった。

僕が外でシキテンをしているミズタニに
缶コーヒーを差し入れて、寒くないかと尋ねた時に
ミズタニは笑いながらそう言った。

寺というのは、新宿から郊外に出て行く時に通る地名だ。
高円寺→吉祥寺→国分寺と寺の付く地名が
等間隔ではないにしろ、一定の距離があることで
一つの目安になっているのだという。

まだ30をいくつも過ぎていない割にはあれこれと職を変わって
運転手もしていたことがあるというミズタニは
寺と言われて寺銭のことを連想し怪訝そうな顔をした僕に
そう教えてくれた。

中肉中背で外見的にはこれといった特徴の無いミズタニだったが
僕らが思いも寄らない物の見方をすることがあって
仕事の合間に外に出て雑談をするのは
僕にとってはなかなか面白い時間だった。

タクシー運転手として個人タクシーの開業を目指していたミズタニは
この世界の住人の多くと同じように、どこかで道を踏み外した。

もともとタクシー業界には博打好きは多い。
客待ちの列で競馬新聞を読み耽る運転手も少なくないし
麻雀やサイコロ、花札といったものに手を出す者も多い。

自分の稼ぎでやっている間はそれは別に構わない。
けれど、一回数枚のカードの数字に、数万、時には数十万を張って
勝った負けたを繰り返していれば、やがて金銭感覚は麻痺する。
ワンメーター650円だのとチマチマ稼ぐのが馬鹿馬鹿しくなってくる。

そしてたまたま勝ちが続いた時に
ずっと食っていけるんじゃないかという錯覚を起こし
仕事を辞めてしまう。

ダメだったらいつでも運転手に戻れるという思いもあるだろう。
二種免許さえあれば食うのには困らない。

もちろんそんな生活はいつまでもは続かない。
一人前の博徒を気取っていても
ほとんど全員、いつかはパンクする。
長く続ければ続けるほど確率というのは収束する。
それから逃れられる者はいない。

そして負けが込んでパンクしかけた時に
人が取る行動は様々だ。

どこまでも堕ちることを選ぶ者、
真っ当に仕事をする生活に戻る者、
あるいはハウス側として働くようになる者、
意識してか、あるいは無意識のうちにか、人はそうしてまた道を変える。

ミズタニも例外ではなかった。
けれど、ミズタニが選んだ道は、少しばかり変わっていた。

堕ちることを拒み、働くことも否定し、
ミズタニは頑としてこの世界で食うことをやめなかった。

食うと言っても、勝負を続けて勝ち残ろうとしたわけではない。
むしろミズタニは、勝負をしないことで勝ち残ろうとしたのだ。

そう、ミズタニはガジリになったのだ。

ガジリ、と呼ばれる人々について説明しておかねばなるまい。

必勝法があれば・・。
これでずっと食っていければ・・・。

ギャンブルに嵌まる人間は
その多くがそんなことを夢見る。

もちろんそれはただの夢だ。

人為的な操作が入り込まない限り
確率が収束して行く原理に抗うことはできない。

もしかしたらごく一部の幸運な誰かは
途中で大勝することもあるかもしれないが、
ギャンブルを止めて勝利を確定させない限り
彼が敗者に向かって歩いていることに変わりはない。

実のところ、カジノというところは、それを予定して営業している。
愛想を振りまき、食事や部屋代のサービス
(海外ではコンプと呼ばれる)をしても
十分に元が取れるという確信があるのだ。

そのコンプの額は、顧客一人一人で違う。
大きくベットする、あるいは長くベットする客には手厚く、
あまりベットしない、あるいはすぐ出て行くような客には小額だ。
平均ベット、プレイ時間などをきちんとチェックしているのだ。

ところが日本のアングラカジノでは違う。
どんな客であっても、最初にチップを買った時点でサービスが付く。
それも、平均ベットやプレイ時間に関わらず同額だ。

およそ10%~15%、場合によっては20%分のチップ、
つまり10万分のチップを買えば1~2万分のサービスが余計に貰える。
サービス分浮きからスタートできることになっているわけだ。

ベットすればするだけ負けるのが博打の仕組みだから
なるべくベットをせずにこの浮きを確保して帰ろうというのが
ガジリの根底にある考え方だ。

カジノ一軒だけではアウトコミッション(換金手数料)を
引かれたら幾らにもならないが
3、4軒、多ければ5軒回れば結構な額になる。

ただし、店側の黒服に露見すれば、出入りを断られたり
サービスチップの提供を断られたりするから、
監視の目をいかにかいくぐるかが大事になってくる。

当然のことながら、監視体制や断る基準は
店によって違うし時期によっても違う。
多少の赤字は覚悟の上で、宣伝の為にガジリを放任する時期もあれば
増えすぎたガジリを整理する時期もある。
もともと従業員が盆暗でチェックが緩い店もある。

そういう店を狙って彼らは入り込む。
なるべくならガジリだと思われないように振舞いながら
少しずつ少しずつ彼らは勝ちを積もらせていく。

もちろん、店側も黙って見ている訳ではない。
ある程度入客が確保できている店であれば
ガジリの存在など害悪でしかないから
客のベットを見てサービスや出入りを断るのだ。

長年業界にいると、一度断った客は
顔を見ただけでガジリだと思い出せるようになる。
そんな時は一度も打たせずに、新規での入店そのものを断るわけだ。

とは言え、僕はミズタニがガジリで凌いでいたことなど知らなかった。

僕がそれを知ったのは、春も間近に迫ったある夜のことだった。

その日店がやけに暇で、僕は外に出てミズタニと雑談をしていた。
ミズタニはたまたま通りかかったガジリをちらりと見ながら

「店長、あれGですよ、G」

と薄笑いを浮かべながら言った。

Gというのはガジリの頭文字だ。
インカムで店内と連絡を取る場合に使う符丁だ。
普通の客なら「ゲスト何名上がります」などと言い
ガジリなら「G何名」、不良や刑事臭い客なら「お客さん」と呼ぶ。
それによってドアを開けたり開けなかったりを決める。

「お客さん上がりました」

などと言われたら、ドアをホイホイ開けてはいけない。
カメラのモニターを注視して、見知った顔でなければ、
そのまま息を潜めて立ち去るのを待つ。

その判断は、基本的には入り口付近の隠しカメラで行うのだけれど
肉眼で見た場合とは異なって見えることもあるから
外で肉眼で見ているシキテンの判断は重要だ。

ミズタニが言ったそのガジリと思しき通行人は僕も知った顔で
最初から入れない客のリストにも入っていたが
パッと見てすぐに分かるあたりは
ミズタニが優秀なシキテンであることを示していた。

そしてそのガジリが見えなくなるのを見送ってから
ミズタニは苦笑いをしながら不意に呟いた。

「あいつらもね、ホント良くやりますよね・・。
まぁ俺も昔はああだったんですけどね」

「ああだったって?」

僕は問いかける。
その言葉が何を指しているのか分からなかったのだ。

「いや、ガジリ連中ですよ。
俺、一昨年までガジリで食ってたんです」

「え、マジで?」

正直言って意外だった。
ガジリというのは、基本的に楽をして金を稼ぎたい連中がやることだ。

浅ましいと言われようが乞食同然に蔑まれようが金を作った者が偉い、
そういう哲学で生きている彼らが
雇われの身になることなど滅多にない。
ましてシキテンのような気候に大きく影響される仕事は
冬場や悪天候の時は辛い。

彼らがそんな仕事をするとしたら
それは半端なガジリ方しかできないか
よほど凌ぎ方が下手なガジリということになる。

「もう食えなくなっちゃったの?」

僕は再びミズタニに問いかけた。
するとミズタニは首を横に振って

「いや、食えなくはなってなかったんですけどね・・」

そう呟いた後に、思い出話を語り始めた。

時折遠くを見るような目をしながらも
道を通る人にはしっかりと目を配りながら。

「運転手も辞めて、バカラばっかりやってて
やれ100万勝ったの200万負けたのってやってるうちに
金がどんどん回らなくなっていって
金貸しから早いのつまんでまでやってって。

で、金利入れるのだけでいっぱいいっぱいになって
いよいよもう飛ぶしかないかなって時に
ふと思ったんですよ。

ハウスから今まで負けた金取り返してやろうって。
多分3000万くらい負けてたと思います。
どんなことしてもそれ取り戻そうって。

でね、車から時計から全部売って金貸しに金返して
残った金が50万くらいでした。
それ元手にハウス食ってやるって思ったんです。

勝負して勝つのなんて絶対無理なのは分かってるんですよ。
バンカーコミッションあるんだし。
だったらいつも隅っこでコソコソガジってる奴らみたいに
俺もガジリになってやろうって。

ガジリの理屈は分かってました。
ただかっこ悪くて出来なかっただけでね。
見栄を捨ててしまえば何てことないんですよ」

ミズタニは少し自嘲気味な笑みを浮かべながら話し
僕はそれを黙って聞いていた。

「だいたいね、昼前くらいに起きるんです。
でね、まずベッドの中で携帯のメールをチェックです。
仲間からのメールがいくつか入っているから。

○○のイベントが終わってサービスが絞られた・・・
△△がリニューアルオープンしてイベントやるらしい・・・

そんなあちこちのハウスの情報を入ってきてるわけです。
もちろん自分が先に情報を手に入れれば自分も回します。
そのためだけの仲間ですから。

で、それを見ながらその日の計画を練ります。
どこの店からどう回るか、
一日に回れる店は多くて5,6軒だから効率は大事ですよね。

自分の部屋は明大前だったんで井の頭線で渋谷に出て、
渋谷を2軒回ってから池袋を3軒回ろうか、
新宿は最近サムいらしいから今日はパスだな、みたいな感じでしたね。

つったって、状況次第で新宿も回らないといけないこともあるんですけどね。
ノルマがこなせなかったり、行こうと思ってた店が閉めてたりとかで。

で、渋谷に着いたら行くのが大体百軒店のNでしたね。
理由は駅から近いのと、けっこうちゃんとした料理が出てくるからです。

基本的に、食事とタバコはカジノで調達するんです。
無駄な出費を控える、という発想っていうか
貰える物は何でも貰うという発想に近いですけど。

もちろんタバコはシガレットケースに4,5本だけ入れて、
残りのタバコはバッグの中に別にしておくんです。
いくらなんでも無くなる前に貰うのはマズいです。
店の人間に余計な反感を買うし、
タバコぐらいで出入りを断られるわけにはいかないですからね。

Nはテーブルが二つでしたけど、
もちろんミニマムが小さい方にしか座りません。
シュートの途中だったら必ず終わるまで待ちます。
中途半端なところで入ったら、自分では2シュートやったと思っても
このシュートが終わるまでやってくれって言われたりしますからね。

まぁNは結構流行ってたんで、ガジるのは楽でした。
大体大きいバランスのテーブルに客がいましたから。
潰れたら、また別の店を探さなくちゃいけなくなるから
店が流行るのはいいことです。

せいぜい頑張って利益を出してくれよ、
こっちはそのおこぼれで生活できれば十分だから、
なんて思いながらやってました。

20点買うと3点サービスが付いて
6デッキのシュートを2シュートってのがNのハウスルールでした。

普通って言えば普通なんですが、
来店ごとにスタンプを1つ押してくれて、
10個貯まればその次のお買い上げの時に20点で4点出てくるんです。

結局は20点で3・1のサービスということですよね。
こんな無差別のイベントを続けてて大丈夫なのかと思うんですけど
太い客がいればまぁ何とかなるんでしょう。
あるいは昔の俺みたいにアホみたいに張るバカな客とかね。

そんなサービスだからガジリは結構入ってました。
若い女のガジリなんか多かったです。
でも若い女は店もガジリって分かってても泳がせるんです。
そういうのが多い方が男の客は喜ぶから。
なんかパッと見て華やかじゃないですか。

オッサンってのは若い女にいいところを見せたいもんで
女に適当に「すごーい!」とか囃されると嬉しいんですよ。
だからついつい張りも大きくなっちゃうし
負けてもゴネたりしないようになりますよね。

だから店も甘めになるんでしょ。
ある意味共存共栄です。
店の黒服とできちゃうガジリの女もいるくらいですから。

もちろん一人だけ反発しても損なので、
こちらも適当に「ナイス!」などと囃してやりますよ。

なるべく雰囲気作りには協力してやるんです。
そうすると断られにくくなるわけです。
寄生してる奴に寄生するみたいでわけわかりませんけどね。
一緒には行動しませんけど」

確かに良く分かってる。

僕は心の中で感心した。
客の中には、ハウスに対して異常なまでの敵対心を燃やすタイプがいる。
何かとハウスのやることに不平不満を言うのだ。
だけでなく、周りの客を焚き付けたりもする。

そうするとどうしたって雰囲気はギスギスするから
あまり太い客でなければガジリでなくても断ってしまいたくなる。
ガジリっぽい張り方をしているという印象だけで断ったりすることもある。

同じ張り方をするなら、場を和ますようなタイプを選ぶのは当然なのだ。
若い女性が歓迎されるのもそういう理由からだ。

ミズタニは黒服の仕事などしたことは無いはずだし
ディーラーの仕事だって出来ないはずだ。
それなのに、店側の都合というものを理解しているというのは
ミズタニなりの観察眼があるのだろう。

客が来店する様子は全く無く、
僕とミズタニは路上でポケットに手を突っ込みながら
さらに話を続けた。

「で、どんな張り方してたの?」

僕は、ミズタニに尋ねた。

もちろん僕も、カジノの世界で長いことやってきているわけだから
ガジリの基本的なやり方は知っているのだけれど
その使い分けには少し興味があった。

「Nみたいにミニマムが$50ならベットの基本は$70前後でしたね。
10回に1,2回は張らずにルックします。
それでたまに1点ちょっと張るようにすれば、まず断られないです。

サービスの額とバカラの控除率1・2%を考えたら、
平均ベットを$80くらいまで上げても期待値は十分プラスでしょ。
ケチって断られては何にもならないですからね。

で、2シュートやったら、勝ってても負けててもアウトです。
まぁ滅多に負けませんけど、たまに負けることはあります。
控除率を超えないように打つわけですから
長い目で見れば絶対に勝てるんですが
その日その日で見れば負けることだってありますよね。

で、渋谷だったらそのままZに向かってました。
Zはサービスは20点で2点だったんですけど
サイコロ振って最大1点まで当たるイベントやってましたね。
8デッキを1シュートやればいいってのもこっちは楽でした。
その方があちこちの店を早く回れますから。

でもZはガジリ多かったですね。
それもかなり露骨なのが。
店のシステムが悪いのか、世の中が世知辛くなってるのか
ちょっとおれらには分かりませんけど。

ヘタクソなガジリってのは大体グループなんです。
理由は複数で来れば、キャッチボールできますからね」

キャッチボールというのはガジリ方の初歩で
二人組み以上でプレーヤーとバンカーに同額ベットする。
プレーヤーが勝てば、張っていないのと同じ状態でベットをしたことになるし
バンカーが勝っても5%のバンカーコミッションだけで済む。

ガジリというのはとにかく賭けてはダメなのだ。
そうやって賭けているふりをして
平均ベットを店の人間に分からないように下げようとするわけだ。
もちろんルックと言って、ベットをせずに一回流すこともする。

ただし、こっちもそんな手口は知っているので
よっぽどうまくやらないとあっという間にばれる。
ばれればその日だけで来店お断り、ということになる。
出入り禁止にはしないけれど、サービスの提供を断るのだ。
それだけでガジリは来なくなる。

「それで、ノルマとかは作ってたの?」

僕はさらにミズタニに訊いた。
人によるのだろうけれど、5軒必ず回るタイプと
一定額勝ったらその時点でその日は終わり、というタイプがいるらしく
僕はミズタニがどちらのタイプか尋ねたわけだ。

「ああ、一応5万勝ったら終了ってことにしてました。
ガジリ生活を始めてしばらくは、最低4軒必ず回ってたんですが
たとえば最初の2軒で目標額勝っちゃうと
気が緩んでその後負けることが多くて。

根が博打好きでしょ、ついその頃の気分に戻っちゃうんですね。
だから目標達成したらその時点で終わってました。
そしたら後は飲みに行ったりダラダラしたりでしたね」

気楽そうに見えるけれど、
先が見えないのは僕らと同じだ。
罪名こそ違えど、摘発されればやはり逮捕はされる。
ミズタニは、ガジリをどんな理由で止めたのだろうか。

「で、何でやめたの?どっかでパクられた?」

ミズタニは苦笑いしながら答えた。

「いや、パクられはしなかったです。
でも客でパクられたって高が知れてるじゃないですか。
常習賭博の量刑なんてせいぜい罰金が関の山です。
そりゃ20か30取られるわけですから痛いですけど
そういう理由じゃないです。

ガジリの生活をね、2年くらい続けたんです。
平均すれば一日4,5万、月に120万くらいは稼いでました。
ガジリって断られると思うかもしれないけど
俺みたいなパターンはなかなか断られないです。
今まで大負けしてた奴がガジリになったりするってパターンです。

なんたってそれまで散々負けてますからね、
断ったりすれば、だったら今までの負け分返せってなることも
やっぱり多いじゃないですか。

ならまぁこいつ一人ならしょうがないか、
もしかしたらそのうちまたハマって
ガジった分吐き出すかもしれないし、
なんて思ってるんじゃないですかね。

でも店の人間の腹の中はニコニコしてたって分かってます。

ああ、こいつ、昔はそこそこ張ってたのに
今じゃ落ちぶれてガジリになったんだな・・

そんな風に思われてるわけです。
もちろんそんなこと気にしてられません。
むしろそう思われてもいいからガジれればいいわけです。

でも、念のためというか、保険というか
新規オープンの店にも行くようにはしてました。
店の寿命も短いですしね、最近は。

でね、ある時池袋の新規オープンの店に行ったんです。
Oって店だったかな。
店自体は綺麗だったけど
俺が行った時は客はまぁ見事なくらいガジリばっかりでした。
上の人間が呼べる太い客がいなかったんでしょうね。

もちろん美味しくガジらせてもらいましたよ。
オープンイベントで20点で4点サービス付いてたかな。

それで俺が打ち始めた時にちょうどアウトした客が
昔からあっちこっちで顔をあわせてた奴でね、
向こうは俺がガジリになったなんて知らないから
調子良く話しかけてくるんですよ。

やれ30バラは打たないのかとか
そういう昔のイメージのまんまで。
こっちもそういうイメージの方が断られにくいから
適当にあしらってたんです。

で、そいつが帰った後、シュートの合間にね
黒服が挨拶なんかしてくるわけですよ。
ずいぶん若い奴だったけど、聞けば責任者だとかで。
それはまぁ感心しましたよ。

その若さで責任者任されるだけあって
客を掴もうという努力はしてるわけですから。
ただその努力があさって向いてるだけでね。

俺の張り方見てれば分かりそうなもんだけど
そういう感覚はあんまり持ってなかったんでしょうね。
教えてくれる人もいないんでしょうし。

ま、そいつにも適当に受け答えして
電話番号なんか交換しました。
こっちはもうラッキーってなもんですけどね。
そうなったらまず断ってこないですから。

店出た後にそいつから電話ありましたよ。
また寄って下さいって。
こいつホント盆暗だわってその時は笑っちゃいました。

でもガジリとしては、これは美味しいと思って通ってたんですが
やっぱりしばらくしたら潰れちゃいました。
ガジリによってたかって食われちゃったんですね。
ま、しょうがないです。

それでね、1年くらい後にね、
別の店でその若い黒服に会ったんです。
その日はノルマが達成できなくて
夜中まであちこち回ってました。
そういう日もあります。

今度は責任者じゃなくて、平の黒服って言ってましたけど
こっちとしては盆暗がいると思って内心喜んでたんです。
だからいつもよりちょっと露骨なガジリ方しました。
ミニマム中心で、ルックも多めにして。

何とか浮かせてアウトして帰ろうとしたらですね、
その黒服に呼び止められたんです。

あ、挨拶されるのかなって一瞬思ったんですが
出てきた言葉は意外なものでした。

申し訳有りませんが、お客様のベットだと
今後のサービスはカットさせていただきます・・

あちゃーって思いました。
何だよ、お前ちゃんと見てたのかよって。
一応軽く抗議もしました。
ちゃんとベットしてたよって。

いえ、ミニマム中心であのルック回数では無理です。

はっきりそう言われましたね。
もうちゃんと理解してるわけです。ガジリのやり方ってのを。
そしてそれを言いにくくても言うだけの器量もあるわけです。
普通はなかなか言えないですよ。本人が得するわけじゃないんだし。

そこまで言われて揉めたってみっともないだけだし
すごすごとビルの外に出たらもう明るいんですよ。
その明け方の薄明かりの中をとぼとぼ歩いてるうちに
急に惨めになってね。

あの若い黒服の兄ちゃんはちゃんと成長してるのに
俺は毎日同じこと繰り返して。
成長なんて全く無くて。

それまで開き直ってガジリやってきたわけですが
それがやけに堪えてね、
もう止め時かなってその時思いました。
そういうことが気になりだしたら、ガジリなんて耐えられないです。

でね、たまたま知り合った奴にシキテンの話もらって
それ以来シキテンやるようになりました。
別にシキテンが立派な仕事だって思ってるわけじゃないけど
一応は仕事ですからね。
ガジリに比べれば雲泥の差です。俺的には。

でもね、店長。
俺ね、もうすぐこの世界上がらせてもらいますよ。
そろそろ負けた分回収し終わると思うんで」

「全額取り戻せたの?」

僕は少し驚きながら尋ねた。

「ええ、ガジリで2500万、シキテンで500万残しました。
リベンジ成功ってやつです。
もう博打は飽きたんで、また運転手でもしますかね」

ミズタニが黙り、僕も黙った。
ミズタニがさっき口にした、明け方の薄明かるい時間になって
ほとんど人通りは無くなった通りを、カラスが飛び交っていた。

言葉通り、ミズタニはその後しばらくして店を辞めた。
いつの間にか携帯電話の番号も変えてしまっていて
連絡も付かなくなっていたし、どこかのカジノで見かけることもなかった。

今でも僕は、タクシーに乗るたびに運転手の名前をチェックする。
一つだけ、ミズタニに尋ねてみたいことがあるのだ。

必死に勝負を続けてヒリヒリしていた頃と
ガジリをやって、毎日金を増やしていた頃・・・、
どちらがが生きている実感があったのかと。

The Outcasts 外伝~Nobody but she told me.

昔、まだ十代の頃、雀荘で働いたことがある。

いろんな意味で、結構キツい仕事なんだという感想は
その時から持つようになってはいたのだけれど
良かった点の一つに、寮があった、ということがある。

家出のような形で実家を飛び出した僕に
部屋を貸してくれるような不動産屋などいるはずもなく
(というか、敷金礼金といった当座の経費さえ持っていなかったし
まして保証人なんてものもいなかった)
僕は食い扶持を稼ぐために少しばかり事情を知っていた雀荘を選んだ。

寮と賄いがあるということだけは知っていたのだ。

とは言え、4人で一つの物件(2DKだか2LDKだかだった)を使う上に
先輩メンバーにやたらとこき使われた僕は
誰かに一度だけ連れて行ってもらったサウナに時々逃げるように泊まった。

風呂があって、横になれるスペースがあるだけで
当時の僕には十分だった。

そして、その後に僕は大学に進学して
大学3年の頃からカジノディーラーとして働き始めた。

フロムAのような求人誌に掲載されていたこともあって
割と気軽に入り込んでしまったような気はするが
結局の所、まぁ自己責任だ。

カジノで働くうちにあちこちの繁華街をうろつくようになった僕は、
歌舞伎町の雀荘でサトコと出会った。

当時、サトコは40前後だっただろうか。
今の僕と同じくらいの年代に見えた。

サトコは、女性にありがちな手に溺れるようなこともなく
押し引きのしっかりした打ち手だったのだけれど
それもそのはず、サトコは性別でいえば男だったのだ。

最初に同卓した時から、声色などに違和感を感じてはいたけれど
はっきりそれを知ったのは、ある日、卓割れした店内での雑談だった。

「お酒呑みに行ったりするの?
良かったらアタシんとこにもおいでなさいよ、安くしとくから」

一人卓に残った僕に、店の名刺を渡してサトコは言った。
すると店長が

「またそうやって若い男捕まえようとか思ってんの?」

などと茶化し、サトコは

「ノンケの子もたまにはいいもんよ」

などと言い返した。
それで僕は、サトコがオカマであることを知ったのだ。

とは言え、サトコと同じように夜の世界で働いていた上に
それほど酒が好きでもない僕が
学校と仕事の合間を縫って呑みに行く機会は無かった。

けれどサトコはそんなことを気にする様子も無く
雀荘で時折出くわすと、気軽に話しかけてきた。
昔はカジノ遊びも相当したらしく、話題も豊富なサトコは
最初から僕にとっては話しやすい相手ではあったように思う。

そんなある日、大学のサークルで飲み会があった。

その日の飲み会は、前期の試験が終わった直後の納会という名目だった。

夏休み直前という開放感もあったせいもあったし
当時はまだ一気飲みのようなことも普通に行われていたので
飲み会が終わる頃には何人かの飲み慣れない人間が潰れていた。

「先輩、A子ちゃんがどこか行っちゃったんです」

酔って騒いでいるうちに、姿を見失ったのだろう、
一人の女子大生(B子としよう)が言ってきた。
同じ大学ではなく、どこかの女子大に通っていた子だった。

ノリが良くやたらとしゃべる子だったように記憶していたが
宴会中の様子とは違って、やけに不安げだった。

「トイレとかは探した?」

僕がそういうとB子はすぐにトイレへと行った。
そしてしばらくして戻ってくると

「一つだけ鍵がかかってて呼んでもずっと出てこないんです」

と小声で言ってきた。

「鍵がかかってるんじゃ起きるまで待ってないとダメじゃんか」

僕がそう呟くとB子は

「でももう飲み会終わりですよね、どうしよう。
先輩ちょっと来てください」

そう頼んできた。
正直に言うと、A子という女の子がどんな子なのか
僕には全く印象が残っていなかった。
多分席も離れていたし、話もしなかったのだろう。

(めんどくさいなぁ・・・)

心の中ではそう思ってはいたのだけれど
一応宴席では先輩風を吹かせていたわけだから
邪険にすることもできず僕は女子トイレまで向かった。

B子は再びトイレに入って、鍵がかかっている個室に向かって
何度もノックをしたり声をかけたりしていたけれど
中からは何の反応も無い。

トイレから出てきたB子は思いがけないことを言い出した。

「今、トイレの中誰もいないんで、
先輩、中に入って上の隙間から見てください。
あたしじゃ届かないけど先輩の身長なら届きますから」

「ちょ、ちょっと待てよ。女子トイレの中に入るのか?
別の人が入ってたらどうすんだよ」

僕が慌ててそう言うと、B子は

「A子しかいないですよ、絶対。
先輩しか頼む人いないんです。お願いします。
周りの皆には黙ってますから。
あ、あたしここで人が入ってこないように見てます」

とすがるような表情で言う。
仕方なく僕は女子トイレの中に入って
鍵のかかっている個室を何度かノックして声をかけてから
上の隙間に手をかけて、中を覗き込んだ。

「あちゃー・・・潰れてるわ・・」

あられもない下着姿でA子と思しき女の子が酔い潰れていた。
顔ははっきりとは見えなかったけれど、服装には見覚えはあった。
そして僕は一旦トイレの外に出て、B子にそう伝えた。
(あられもない姿だったことはもちろん省いた)

B子は即座に言った。

「先輩、上から入って鍵開けて連れてきてください」

その時点では薄々予想は出来ていたので
僕はもう半ばヤケクソで頷き、
女子トイレの個室の上から個室に侵入するという変質者的な行為を
誰かに見咎められた時に正当化する理屈を
少し酔った頭で必死に構築しながら取り掛かった。

(これはこの子の友人に依頼されて仕方なく、
いや、それじゃダメだ。依頼なら何でもするのかってなっちまう。
緊急避難であって違法性が阻却されるって言えばいいのか?
明らかに正当防衛ではないよな。あれ、緊急避難の要件ってなんだっけ?)

真面目に勉強しておけば良かったのだけれど
その時はそんなことを考える暇は無い。
行為自体はあっという間に終わることだ。

僕は個室へと降りると、A子の衣服を整えてやり
A子を背中におぶって個室の鍵を開けて外に出た。

「吐いた形跡はあるけど後は大丈夫?」

一刻も早くその場から立ち去りたい一心で
僕は建前丸出しでB子に尋ねる。

もちろん解放されるはずも無かった。

「あたし一人じゃ連れて帰れないです・・・。
先輩お願いします。新宿からなら一本ですから」

B子は泣きそうな顔でそう言う。
帰ろうと思っていた僕は、A子をおぶったままため息をついた。

「一本ってどこよ?」

「狛江です。あたしん家豪徳寺なんで途中まで一緒に行きますから」

「・・・俺小田急線じゃないんだけど」

「この時間ならまだ上りもあるから大丈夫ですよ。
それに、頼めそうなの先輩しかいないんです・・」

確かに時刻はまだ11時を少し回ったくらいで
狛江まで行って帰ってくることは別に不可能ではなかった。

(嫌だって言ったら悪者になるの俺なんだよな・・)

世の中って理不尽だなと思いつつも
僕はもう諦めの境地で頷いて駅の方向へ歩き出した。

歌舞伎町から小田急線の駅まではかなり距離があって
僕は汗だくになりながらもA子をおぶって歩いた。
唯一の救いと言えば、歌舞伎町には同じような酔っ払いが大勢いて
女の子をおぶって歩く僕の姿は特に異様ではなかったことくらいだった。

ところが。

「うわっ、また吐いた」

歩いているうちに、振動で状態が変わったのか、
A子は酔い潰れたまま嘔吐したのだ。

肩口にあったA子の口から、
微量ではあったけれど胃液のようなものが流れ出て
僕の着ていたTシャツを部分的にオレンジ色に染めた。

(何この臭い・・マジかよ・・これ着たまま帰るのか・・)

混みあった小田急線の中で、異臭を放つ僕。
そして潰れたままのA子。泣きたい気分だった。

豪徳寺まで来ると、B子はA子のバッグから学生手帳を取り出して
A子の住所を書き写すと、僕にそれを渡して

「じゃ、後はお願いします。変なことしちゃダメですよ。
後でA子の家に電話しますから」

といって降りていってしまった。
普通一緒について来るもんだろうと思いながらも
いちいちそういうことを言うのが面倒で
僕は曖昧に頷いてB子と別れた。

電車が狛江に着き、僕はタクシーを拾って
A子の住所を告げる。
ものの数分でA子の家には着いた。

表札を確かめて、呼び鈴を鳴らす。
すぐにA子の母親らしき人物が出てきた。

「あ、夜分にすいません。A子さんと飲み会で一緒だったんですが
A子さん、少し飲み過ぎたみたいで・・」

僕がそう言うと、母親は

「まぁいやだ、この子ったら。ちょっとここまで上げてください」

と言い、僕は玄関先までA子を連れて行き、
A子をそこに横たえて帰ろうとした。

すると。

「ちょっと待ってください」

母親は短くそう言うと、家の奥へ引っ込んだ。

(あれ、車代でもくれるのかな)

僕は心の中で少し期待して、母親の戻ってくるのを待った。
母親はすぐに戻ってきた。
毛布と、なにやら紙のようなものを持って。

母親はA子に毛布を掛けると、僕の方を向いて言った。

「あなたお名前は?学校はどちら?」

少し詰問口調なのが気になったけれど
もちろん僕は正直に答えた。

「W大学法学部3年のOです」

母親はそれを紙に書き留めると、
今度ははっきり詰問口調で言葉を続ける。

「何でこんなになるまで飲ませたんですか?」

「は?」

「年頃の娘にこんなに飲ませて何かあったらどうするんですか」

「いや、僕が飲ませたわけじゃ・・」

「A子は普段お酒なんて飲まないんです。
誰かが無理に勧めなければ飲むはずないじゃないですか」

「・・・」

叫び出したかった。
いっそ大声で怒鳴り散らして
啖呵の一つも切れたらどんなにすっきりしただろう。

(ふざけんな、お前の娘が勝手に飲んで勝手に潰れたんだろ!
パンツ丸出しで便器抱えて潰れてるの背負って
俺はわざわざここまで連れてきてやったんだぞ!)

けれど、そうするにはあまりに僕は疲弊していて
(そもそも疲弊していなくても、僕は女性にあまり怒鳴れない)
その後15分くらい、僕はA子の母親に小言を言われ続けた。
タクシー代なんてもちろん寄越さなかった。

狛江の駅までとぼとぼと歩き、上りの列車を待つ。
辛うじて、最終の上り列車のある時刻だった。

新宿駅に着き、僕は再び歌舞伎町へと向かった。
もしかしたら、まだギリギリ部屋に帰れる時間だったのかもしれなかったが
汗と酒と他人の胃液の入り混じった臭いが着いた服を、
僕はこれ以上着ていたくなかった。

目に付いたサウナに飛び込む。
体を綺麗に洗い流してさっぱりしたかったし
サウナであれば、Tシャツなどの物販もある。

朝まで寝てから帰ろう、そう思っていた。

一風呂浴びて、ようやくさっぱりした気分になる。
深夜のサウナは結構混雑しているが
横になれるスペースを見つけて横になる。

(今日は散々だったな・・)

そんなことを思い返しているうちに
いつの間にか僕は眠ってしまっていた。

(・・・ん?)

何時だっただろうか、何かの気配を感じて
僕はふと目を開けた。

すると誰か僕の顔を見下ろしているではないか。

(・・え!何?誰?知り合いかな・・?)

眠気の取れない頭で思考する間もなく、
そこにいた誰かは、僕が目を開けたことに気づくや
さっとその場を離れていってしまった。

(あれ・・気のせいだったかな・・
まあいいや・・眠いよ・・)

僕は再び眠りの底へと沈んでいった。

(・・・?)

しばらくして、今度は下腹部で誰かの手が動くのに気づいた。
手が当たらないように寝返りを打とうとした瞬間、
その手はさっと引っ込んでいった。

(寝相の悪い人がいるんだな・・)

などと思って、僕は暢気にうとうとと浅い眠りを続けていたのだけれど
しばらくすると、手の主はまた僕の下腹部へと手を伸ばしてきて
僕の股間をまさぐってくるではないか。

どう考えても、それは偶然当たったような動きではなく
ある意思を持って動いていた。

そこに至って僕はようやく深刻な事態に気がついた。

(これはわざとだ!こいつはゲイなんだ!)

眠気はいっぺんに吹き飛んだ。
僕は飛び起きて急いで服を着替えてサウナの外に飛び出した。
蒸し暑い夜だったけれど、衝撃で体が震えていた。

それまで同性愛者に嫌悪感は無かったはずなのに
(というか、そもそも好悪を判断するような接点が無かった)
無理やり痴漢のようなことをされたショックは大きかった。

僕はコマ劇場の前に腰掛けて、そのまま始発を待った。
漫画喫茶のようなものは当時は無かったし
雀荘などに行って誰かと話す気分にはなれなかったのだ。

翌日、ディーラーの仕事をしに、カジノに行って
店の店長に僕はぼやいた。

「いや、昨日サウナでえらい目に遭いましたよ・・」

僕が前日の出来事を話すと、店長は大笑いして

「それどこのサウナに行ったんだよwww」

などと尋ねてくる。

「いや、コマ劇の近くのFっていうとこですけど・・」

「えwwwふwwwあそこハッテン場www
お前知らなかったのかwww」

詳しく話を聞くと、歌舞伎町にあるサウナのうち
僕が入ったFと近くにあるOというサウナは
そっちの気がある人の溜まり場なんだという。

「マジですか・・orz」

落ち込む僕を尻目に店長は嬉しそうに他の黒服にそのことを教え
僕はその日ずっと、みんなのからかわれる羽目になった。

「ホモくん、次30バラねww」
「店ではハッテンしないでねwww」

まだ二十歳そこそこの、僕の可哀想な自我は
その一両日でズタズタに切り裂かれた。
帰る間、真剣に店を辞めようかと悩んだくらいだった。

ところが、悲劇はそれだけでは終わらなかった。

翌日、僕が学校に行き、サークルの溜まり場に顔を出すと
友人の一人がニヤニヤしながら僕に呼びかけてきた。

「ようヘンタイ、合宿の日程聞いたか?」

「は?ヘンタイって何だよ」

「とぼけちゃってwww居酒屋の女子トイレ覗いたんだろ?」

「誤解だって。覗いてねぇよ。あれはB子に頼まれて・・」

「またまたwwB子はそんなこと言ってなかったぜ。
お前が女子トイレ覗いてA子見つけたって」

僕の脳裏にB子の調子の良い話し方が蘇った。
その場を盛り上げようと、B子はあることないこと織り交ぜて話したのだろう。
適当に事実を並び替えたり、適当に脚色、あるいは端折ったり。

(何だよ、B子のやつペラペラいい加減なこと喋りやがって
黙ってるって言ったじゃねえかよ)

僕は一瞬むきになって反論しかけたが
すぐに馬鹿馬鹿しくなって思いとどまった。
反論すればするだけ面白おかしく囃されるし、
言いたい奴には言わせておけばいいのだ。

僕は連絡ノートに書かれた合宿の日程だけチェックすると
すぐにその場を離れた。
僕をからかってきた友人が何かを言いたそうにしていたけれど
そっぽを向いて通り過ぎた。

幸いこれから長い夏休みだ。
夏休みの後半にある合宿の頃には
ほとんどの人間はそんな事件など忘れているだろう。

(店ではホモ、学校ではヘンタイか・・)

そう考えると急にやるせなくなった僕は
ふと、サトコのことを思い出した。
サトコはなんて言うだろう。

僕は財布の奥からサトコのくれた名刺を引っ張り出して
深夜にサトコの店へ行った。
店に入るとすぐにサトコと目が合った。

「あら、どうしたの。珍しいこともあるもんねえ」

そう言いながらサトコが席へと導く。
10人も入ればいっぱいになってしまうくらいの小さな店には
サトコの他に、女の子(と言えばいいのだろうか)が3人ほどいた。

「何呑む?ビール?」

曖昧に頷く僕に、サトコが尋ねてくる。

「それで?今日はどうしたの?
もしかして目覚めちゃった?」

苦笑いしながらそれを否定して、
僕は自分の身に起こった悲劇についてサトコに話した。
サトコはそれに頷きながら聞いていたけれど
僕の話が終わると、小さなため息をついて言った。

「あらまぁ、それは災難だったわね。
でもね、男にもいろんな男がいるし、女にもいろんな女がいるでしょ。
オカマだって同じなの。基本的にはおとなしいんだけど
中にはそうやって襲っちゃうのもいるわけ」

グラスの水滴を拭き、氷を足してウィスキーを注ぎながらサトコは続けた。

「アンタは優しいのよね。だからそうやって傷つくこともあんのよ。
それはすごくいいこと。でもアンタがあの世界で生きていくなら
アンタはもうちょっと強くならないとね」

そしてサトコは横にいる女の子にこう言った。

「でも、そういう男に女は弱いのよねえ・・
ってやだ、アタシ女じゃなかったわwww
アンタもそこはすぐ突っ込まないとダメじゃない」

場に笑いが巻き起こり、空気が変わった。
僕はその日、サトコや店の女の子と馬鹿話をして朝まで笑い転げた。
息が苦しくなって、涙が出てくるくらい笑ったと思う。

店を出る頃には、僕はすっかり元気になって、
すでに明るくなっていた通りで、
タクシーを拾おうとしているサトコにこう言った。

「ありがとうございました。すごく楽になった」

サトコは笑って手を振りながら

「アンタが早くタクシー乗ってくれないと
アタシこの化粧のはげた酷い顔でずっと外にいなくちゃいけないんだけど」

と答えた。

それからというもの、僕は時々サトコの店に行くようになった。
ディーラーから黒服になって、黒服からさらに上のポジションに上がっても
サトコはいつも学生相手のような金額しか僕から取らなかった。

「アンタがもっと偉くなって、強くてかっこいい男になったらいっぱいもらうわよ」

人情の機微に通じ、ユーモアのセンスに溢れた彼女たちの会話から
僕は実にいろいろなことを学んだと思う。

誰かがボケればすかさず突っ込み、時には突っ込みやすくボケる。
時に自分をネタにしても、場の空気を盛り上げる。
真似ができないなと思わされることも何度もあった。

「役回りってあんのよ、誰にだって。
アタシたちはここで馬鹿やるのが役回りなの。
ずっと通ってくる客もいれば、通り過ぎていっちゃう客もいて。
水商売ってのはそれを見続けるのが役目みたいなもんなの。
アンタだってアンタの役回りがいろいろあんでしょ?
何もかもぜーんぶほっぽり出すか、その役回りをこなすしかないのよ」

店が終わった後、一緒に麻雀をしながら
(オカマ3人に囲まれたセット、というのはなかなか貴重な体験だった)
たまに僕が愚痴のようなことを言うと
サトコはそう言って、次には必ず

「ここはアンタが振り込む役回りなんだから!早くフんなさいよ!」

などと言って笑いを取った。

それは本当に楽しい時間だったのだけれど
それが楽しいものであればあるほど、
店を出た後に、僕は決まって切なくなった。

あるいはそれは、一過性の場であることが
誰にとっても分かっていたからだろうか。

面白うて、やがて悲しき・・・

そんな形容がぴったりの場だった。

実は、サトコは、もういない。
体を壊して入院したという話を聞いた数ヶ月後には
この世の人ではなくなっていた。ガンだったという。

告別式の会場だという落合の斎場へ僕が行くと
店の女の子と数人の客しかいない寂しい葬儀が行われていた。
サトコの身内は葬儀に出席することを拒んだという。

僕が喪主を務めていたチーママに挨拶をすると
彼女は

「サトコさん、アンタのことホント可愛がってたのよ。
アングラの世界であんな子めったにいないって。
幸せになりなさいね。頑張るのよ」

と僕に言った。

途端に、涙が溢れてきて止まらなくなった。
僕は斎場の白黒のテントの脇で、しばらく嗚咽した。

「後になっちゃえばね、だいたいみんな笑い話よ」

サトコはよくそう言っていた。
嫌なこと、悪いことがあった時ほど。

サトコさん、僕は偉くも強くもなれなかったけれど、
その言葉だけは、身についたような気はするよ。

The Outcasts 外伝~Shang-hai Honey

最初にコンタクトを取ってきたのは彼女の方だった。
名前は、クルミだったと思う。

アミューズメントカジノ、つまり、金銭を賭けない、
単なる遊技場としてのカジノで働いていると言うクルミは
どこかで僕の書く文章の存在を聞いたらしく
僕が入っていたSNSに簡単なメッセージを送ってきた。

メッセージを貰ってから、クルミのプロフィール欄を見にいくと、
クルミはまだ僕の半分ほどの年齢だった。
何でも、留学費用を稼ぎたくてアルバイトをしているのだと言う。
かつての僕と全く同じ動機だ。

カジノに存在するギャンブルの面白さに対して
若者らしい好奇心をあけすけに語っていたのだが、
それと同時に、僕がかつて属していた
アンダーグラウンドの世界に対しても多少の興味を持っていたようで
僕としてはまずそれを思い止まらせることを念頭に置きながら
クルミに対して返事を書いた。

アミューズメントカジノとアングラカジノでは
同じディーラーをやっていても
収入はおそらく2倍以上違うだろう。

そして、単なるゲームとしてディールしていくうちに
本気の客を相手に、本気のディールをしてみたいと思うようになる。
あるいは、自分でも本気で勝負を味わいたくなる。
これはどんな人間でも思うことだ。

料理でも武道でも、球技でも、
ママゴトをしているうちに、本物を味わいたくなる。
むしろ健全な好奇心を持っていればいるほど
そういう傾向は強いかもしれない。

けれど、カジノに関して言うのであれば
そちら側に踏み込んでしまえば
元の世界に戻るのは、そう簡単なことではない。

人は、目的が明確であればあるほど
それを実現させるための期間は短くしたいものだ。
であれば、より収入の良い仕事があれば
そちらに惹かれるのはむしろ当然ですらある。

僕自身、それを十分すぎるほど経験してきたのだ。

そして僕がクルミに対して感じた危惧は
業界に踏み込んでいくことだけではなかった。

アンダーグラウンドの世界に興味を示したクルミに対して
僕が感じた危惧。

それはクルミ自身の問題だった。

クルミはSNSのプロフィール欄に、
どこかで撮った自分のプリクラを載せていた。
そして、同じ欄にリンクを張った自分のブログで
ちょっとした芸能活動をしていることも明かしていた。

モデルかタレントか・・、それは僕には分からない。
けれど、そこに載っていた彼女のルックスは
確かにそういった活動をしていてもおかしくないレベルだった。

ショートカットの黒い髪、大きな瞳、白い肌・・
美少女というよりはチャーミングな小動物のようなクルミが
若い頃の僕の目の前にいたら
僕はドキドキして話すことも出来なかったかもしれない。

もちろん現実には、
クルミと僕は無機質なweb空間で繋がっているだけだし
僕はそこまでウブな少年でもない。

第一相手が誰であろうと、
ドキドキして言葉に詰まったら、
パソコンの前を一旦離れて
洗面所で顔でも洗ってくれば済むだけの話だ。

けれど、クルミがSNSとは言え巨大な世界で顔を晒し、
カジノをテーマとするいくつかのコミュニティに加入し、
自分の店にやってくる何人かの客と
フレンドリンクを張っていることに
僕は少なからず懸念を抱いた。

もちろん、それ自体はどれも悪いことではない。
そのことによって、世界が広がることもあるだろう。
クルミだけでなく、僕も、誰もがそうしている。
それがSNSの魅力であり、意義なのだ。

一方で、クルミの個人的な条件を考えれば
そのことによって、彼女がある種の煩わしさを背負うのも
ある意味においては必然だ。

クルミが望むと望まないとにかかわらず。

SNSというメディアを、出会い系のように使う者は多い。
定かではないけれど、専門の業者の数も相当多いだろう。
顔を合わせずに済む分、軽い気持ちで声をかける割合は
むしろ通常の世界よりも多いかもしれない。

僕はそれを必ずしも悪だとは言わない。

健康な男女が、異性に出会うことを求めるのは
自然なことであり、当然のことでもある。

若くて可愛い女の子がいれば
声をかけるのは男として礼儀だという価値観だって
世の中には歴然と存在する。

まして、加入しているコミュニティがカジノ関係で
アミューズメントカジノで働いていることを公言しているのだ。

カジノ業界の人間の男女関係の希薄さを考えれば
彼女にどれくらいのアプローチがあるか、想像に難くない。
そして、彼らにとって都合の良いことに
彼女はカジノの世界に興味があるのだ。

「こんな遊びじゃなくて、真剣勝負しにいこうよ」
「若いうちは社会勉強しなくちゃ」
「俺の顔が利く店に連れてってあげるよ」

メッセージで、コメントで、あるいはクルミの働く店で
そんな誘い文句が投げかけられているのが目に浮かぶようだ。

それにどう対応するかは、彼女の問題だが、
結果にはいくつかの類型があるだろう。

何事も無く、ちょっとしたスリルを楽しんで
カジノとも、相手とも程よい距離を保っていけるかもしれない。

最初はチビチビと遊んでいたのが
張る金額はどんどん大きくなり
最初は誰かと一緒でなければ行けなかったのが
一人でも行くようになってしまうかもしれない。

もしかしたら、イカサマに嵌められて、有り金どころか
巨額の借金を作ってしまうかもしれない。
場合によっては、水商売や風俗へ沈められるかもしれない。
クルミには、間違いなく「値が付く」はずだ。

アングラの世界で働くようになって
やがてどこかの店で摘発されて
ベントウ(執行猶予のことだ)でも貰うかもしれない。

相手の人間性が信頼できるかどうかも分からないし
仮に信頼できたとしても、相手も嵌められているかもしれない。
金か体のどちらかを、あるいはその両方を目当てにしていないなどと
一体誰に言えるというのだ。

クルミにカジノの世界の住人の本質が見抜けるとも思えなかったし、
イカサマに気付けるとも思えなかった。
彼女の自制心がどれくらいのものかなんて、分かるはずもなかった。

とは言え通常、僕はそういったケースではまず口を挟まない。
何も言わないし、止めようとも思わない。

クルミは自分の責任において顔を載せ、
自分の責任においてSNSをやりコミュニティに入って、
自分の責任において仕事をし、人間関係を作った。

僕などが何を言ったところで
堕ちる人間は堕ちていくし、
僕にはいちいち気にするほどの暇も甲斐性も無い。

クルミが望んだ結果になるかもしれないし
クルミはそれで幸せになるのかもしれない。

僕の知ったことではないのだ。

にもかかわらず、僕は言葉を尽くして
クルミにそのことを延々と説いた。

僕がクルミを放っておけなかった理由。

それはもちろん彼女のルックスもあったかもしれない。
可愛い子が堕ちていくのを見たい人間は少ない。
少なくとも、僕にはそういう趣味は無い。

一番の理由は、彼女の年齢だった。

クルミは僕の半分ほどの年齢と書いたが
年齢差で言えば、16歳離れていた。

僕はふと、16年前を思い起こし、
それが僕がアンダーグラウンドの世界に
足を踏み入れた年齢であることに気付いたのだ。

僕がこの世界に入った頃、この子は小学1年生か・・

そのことを考えると、
周りに、お節介を焼いてくれる存在がいることが
もしかしたら幸せなのかもしれないと思ったのだ。

君がやっている芸能関係の仕事も
アングラの世界でパクられちゃえば台無しなんだよ。

何も知らない相手に長々とそんな返事を寄越されたクルミが
どう思ったかは僕には知る由も無い。

けれど、結果として、クルミはアンダーグラウンドの世界を覗くことなく
程なくしてアミューズメントカジノの仕事を辞め、
プロフィールから顔写真を削除した。

この短編は「Outcast」を描いたものだけれど
そういう意味では、クルミは「Outcast」ではない。
外伝にしたのはそういう理由からだ。

その後しばらくの間、僕とクルミはweb上の遣り取りだけを続けた。
クルミは上海に留学することになったのだけれど
webの上のことだから、どこに住んでいようと関係は無かった。

僕は僕の書きたいことを書き、クルミはそれを読む。
クルミも上海での出来事などを書き、僕がそれを読む。
そんな関係がしばらく続いた。

クルミの記事に着くコメントが
どうも彼女を偶像化して賞賛するかのようなものが多いことには
ちょっとした違和感を覚えざるを得なかったけれど、
そういったコメント主を僕が現実に知っているわけではないから
それはもしかしたら僕の考えすぎだったのかもしれない。

けれどある日、クルミは忽然とwebの上から消えた。

ごく普通の生活をしている彼女の身の上に、
特に事件があったわけではないだろう。
摘発や破滅が賭けられるような生活ではない。

ひょっとしたら、プロフィールの画像を変えただけで
IDをそのままにしていたクルミに、かつての画像の記憶を元に
しつこく言い寄った人間もいるかもしれないが
その手のあしらいには慣れているのではないかとも思う。

まして今更アンダーグラウンドの世界に
足を踏み入れる気になったわけでも無いだろう。

たぶん、あの年代の女の子にありがちなように
クルミは飽きただけなのだろう。

ただ、僕は少しだけ気になっているのだ。

アカウントごと削除してしまいたくなるほど嫌なことが
クルミに降りかかっていはしないかと。
一瞬すれ違っただけに過ぎない僕が
心配するようなことではないのだけれど。

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プロフィール

omoteura

Author:omoteura
天鳳で日夜遊ぶ柏レイソルサポーター。

天鳳(鳳凰卓東風戦)の段位は現在八段。

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アングラ小説はリンクから。
Twitter=@foolishowl0425

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